日常用語と現代思想用語

・労働規制関連で、「辛ければ辞められるのだから、問題は労働者の自己責任」という論理が、今の社会科学の水準では通用しないことはよく分かる。

・ただそれが分かった上で、そのようなレベルまで自由意思や主体、権力という言葉の定義を脱臼させることが、果たしてエピステモロジーとして何を意味するのかという議論は、されてしかるべきだと考えている。つまり、「辛ければ辞められるのだから」という言説は人文社会学の訓練を受けていない暴言だとして、議論の埒外に退けてしまうのは、いささか判断が早すぎるのではないか、と考えている。もっとはっきり書けば、労働規制緩和関連の話題で、不用意に?「労働者の自由な選択」や「過労死する前になぜ辞めないのか」と言ってしまう人たちを、もっと真面目な対象として取り扱う(賛同するのではなく)必要があるのではないか、と考える。

・これは労働問題だけではなく、アイデンティティ・ポリティクスから、哲学における◯◯実在論系の議論まで、さまざまなことに共通した、深度のある大問題だが、煎じつめれば、言葉の意味を普通に考えたら想像できないようなレベルまで押し広げたり(逆に狭めたり)して社会現象を論じることを、私たちはどこまで受け入れるべきか、という問題だ。例えば、「人は個人として自分のことは自分で決める、自由とはそういうことだ」と書くのでは、大学の政治哲学や厚生経済学の試験で単位はおりないだろう。仮にそのような立場を支持していたとしても、答案用紙には追加して、「しかし、個人が充足した主体として思考し選択し行動するためには、それを可能とするような社会・経済・文化・認知的な条件が整っている必要がある」と書き添えておく必要がある。このように考えることが、人文社会学における知の進歩だとされてきた。大学では素朴な自由主義個人主義は頭の悪い(または勉強をしていない)ことの証拠だとされる。しかし、ひとたび授業やゼミが終われば、大学教員や学生が使う「自由」や「意見」といった言葉は、まったく日常的なものだ。食事に行こうか、何が食べたい?どこの店がいい?という時に、いちいち自由意志論や二次元的権力論、三次元的権力論等々について想像を巡らして、それじゃぁ駅前の中華料理屋にしましょう、ということになっているとは思えない。

・日常会話と現代思想的な語用の落差は、20世紀の後半から今日に至るまで、拡大するばかりだ。発言するフィールドが現代思想的な場所だと分かれば、下手なことは言えない。自己は分解し、声は共鳴し、健康は病気になるのが現代思想だ。普通に実感が持てる言葉で書いたり読んだりしないこと、普通に実感が持てることは公然・隠然・認知レベルの権力または構造によって作り込まれていると自覚すること、これらが現代人文社会学の入場パスである。

・話を広げすぎなのかもしれない。ブラック企業働き方改革を批判している系の人たちからすれば、デリダラカンスピヴァクは関係がない。もっと普通に考えても、労働規制緩和は改悪でしかない、のかもしれない。しかし、私にはどうしても、ここに通底しているものがあるように思える。

・それから、もう少し議論を整理する必要があるかもしれない。今私が挙げたような現代思想系の議論の特徴に関わる問題と、ニュー・リベラリズムの特徴は別の話として分けて考える必要があるかもしれない。自由主義とはいってもレッセフェールでは駄目で、個々人の自由が従属するためには、条件整備が必要だ、という立場は、それほど現実感覚から離れていないのかもしれない。だとすれば、そもそもここに書いている違和感自体が幻想なのかもしれない。