U・ベック『世界リスク社会論』 ノート

U・ベック(島村賢一訳)(2010)『世界リスク社会論−テロ、戦争、自然破壊』ちくま学芸文庫

日本語版への序文(2002年8月 訳者解説169頁)
p10:主権をめぐるナショナルなゼロサムゲームは歴史的に誤ったものとなる。新しいコスモポリタン的な現実主義が登場する。グローバルなcrisisやriskの時代においては、超国家的な依存関係が重要になり、そのことを理解した政治によってのみ、国家の自立が得られるという逆説。
p12:ロシアや中国やイランがを、テロに対する同盟として一つにまとめる可能性。従来の国家間の敵対関係のイメージと、国家ではなく集団やネットワークや個人に関する超国家的なテロに対する敵対関係を、明確に区別することが重要。超国家化、脱場所化、脱画一化、ネットワーク。
p13:しかし、誰がどのような基準でテロリストを認定するのか。現状では強い国家が決めている。
p14:不安の文化のグローバル化、リスク社会においては不安が共同体の紐帯になる。不安で人々が結びつく。不安に包まれた人間は、自由や権利に対する侵害を受け入れやすくなる。安全のために自由という代価を支払おうとする。Patriot Act(米)。

言葉が失われるとき(2001年11月)
p22-23:戦争/平和、軍隊(対外安全保障)/警察(国内治安)といった従来の区別が通用しない。ドイツ国内の治安を守るためには、アフガニスタンの奥地で防衛する必要がある、というような。「防衛」という言葉自体が無意味になりつつある。今まで使ってきた言葉、概念では、役に立たなくなっている。
p25:1万年後の未来。
p26:数量化可能なリスクを扱う言語と、数量化することのできない不確実性の世界との隔たりが、科学技術の発展とともにますます拡大している。遺伝子工学ナノテクノロジー、コンピュータ科学は、制御不能、予見不能、コミュニケーション不能な結果をもたらす。
p27:リスク概念は近代の概念。決定ということを前提に、予見し、制御、回避するという姿勢が前提になる。したがって、純粋な天災とは違う。文明社会がもたらしたリスク。
p28:世界リスク社会は、危険のグローバル化でもあるが、新しい世界政治を切り開くチャンスでもあるグローバルなテロに対して、危険のグローバル性を認識すれば、これまで対立していた主権国家同士が運命共同体として協力するかもしれない。
p37:国境を超えた脱領土的なテロのネットワーク。
p38:自爆犯の単独性。犯行=自己抹消なので、国家は彼らを操作できない。国家は実行犯を「陰で操る人間」、支援国家を補足しようとするが、犯人が自分自身を裁いた時点で、因果関係は失われ、消えてなくなってしまう。戦争の個人化、国家同士の戦争ではなく、個人が国家に仕掛ける戦争へ。
p40:軍隊と市民社会の区別、容疑者と容疑のない人の区別の溶解。市民は自分が危険人物ではないことを証明することが必要になる。というのも、誰もが潜在的なテロリストでありうると疑われるからだ。何の容疑がなくても、治安のために管理されなければならない。

p41-42:ベックは、法の原則、テロについての国際的な協定と、裁判による判断が必要だと説く。「とりわけ国際司法裁判所の規約を、アメリカも含めすべての国家が批准しなければいけない…その目標は、人類に対する犯罪としてテロを世界中どこでも罰することができるようにするということです」
p53:ネットワーク化し、グローバル化したリスクについては、外交と内政は峻別できない。国家の安全のためには、国家を超えた協力が必要、自国の利益のために脱国家化が必要、という逆説。国家の自己決定権の縮減と、国家主権の増大とは、論理的に排除し合うものではなくなる。
p54:主権と自己決定権をくべるする必要。国民国家は主権と自己決定権の等置を前提にしてきた。経済的相互依存や国家間の軍事的協力は自己決定権=主権の喪失を意味していた。しかし、現在では、強調する能力、ネットワーク化された国家間関係、「共有化され、束にされた主権」の時代である。
p56、58:ただし、国家を超えた国家間協力が、監視国家・要塞国家へ向かってしまわないように、開かれた国家、立憲的寛容へ向かわないといけない。EUの将来に期待!あほか。

世界リスク社会、世界公共性、グローバルなサブ政治(1996年5月)
p71:リスク社会とは、究極的に考えると、世界リスク社会を意味する。空間的にも時間的にも境界が定まらない、文明によって作られた危険を本質とする。したがって、階級対立、国民国家、直線的で技術経済的な合理性や制御といった第一の近代=産業化の段階の基盤が揺らぐ。社会と自然という二元論は限界に至る。なぜなら、文明によって作られた不安定性(リスク、危険、副作用、グローバル化)が問題となる
からである。
p72:世界リスク社会は、文明衰退論的に政治の終焉をもたらすのではなく、社会を反省的なもの(reflexive)と位置付ける(社会が自分自身を主題と問題とする)。そして、グローバル性は強調的な国際機関の創設の機会を開く。また、グローバルなサブ政治が展開する。世界リスク社会という苦境は、世界市民社会が生じる機会でもある。
p76:自然というのはナチュラリストが考えるような意味で、もともとある(破壊された)ものではない。自然とは何らかの形で社会化されたものであり、文化がつくりあげた自然概念であることに注意。
p78-79:専門家や技術者は「どのように私たちは生きたらよいか、人間はさらに何を甘受する覚悟をしたらいいか、しなくてよいのか」といった問いには答えられない。こうした問いへの答えは、諸文化によるグローバルな対話の対象にされるべき。文化科学(生態系の危機の程度と緊急性は、文化内の認知と評価によって変動すると考える)的な議論の対象である。フランスとドイツでは原子力発電についての、文化的な認識が異なる。危険とは、我々の意識と独立にそれ自体として存在するようなものではない。危険は意識化によって初めて政治的なものとなり、その後で科学的な議論のための資料によって戦略的に規定されたり演出されたりする社会的構築物である。すでにDouglas, Mary and Wildavsky, Aaron. 1992.Risk and Culture は、この味方を提示していた。
p80-84:リスクについての現実主義と構築主義。現実主義は、リスクが科学的に実在すると考える。リスクは科学的に、そこにあるのである。構築主義は、解釈の優位性を強調する。リスクは社会的に構築されたものである。現実主義的な危険の自明性が「どのように作り上げられているか」「どのような行為者や制度がその決定に影響を及ぼしているか」が問われる。構築主義によれば、世界リスク社会は、科学的診断に基づくのではなく、言説の状況に基づいている(リオデジャネイロの国連環境開発会議以降、90年代になってからの言説)。
p88:「単純すぎる構築主義」自分こそが唯一の構築主義であるという、いわば現実主義的な誤解に陥る。危険はすべて構築されたものということになれば、危険の無害化に陥る。対する「反省的な現実主義」。
p89:ラトゥールのANT紹介。社会と自然の二元論は機能しない、代わりに「判別不可能性」、否定形。
p92:ハラウェイ、境界の消滅と混沌を受け止め、自分で意識的に新たに定める。ITとバイオテクノロジーが女性と男性、人間と機械の区別を書き換える可能性。
p96:マールテン・ハイエール「現実がより現実的になる」可能性、社会的現実の非構築的な構築の可能性。危険を「比較にならない」と排除する政治、画像や感覚に訴えて危険を提示・隠蔽すること。注14「政治というものは、共有化された現実規定に基づく言説・連合の創造の過程である。信用性と受容性と信頼が、世界形成の過程がどの程度成功するかを決定しているとわれわれは示唆した。これは、結局、反省的な制度的編成を企画しようとするならば、言説連合の社会認知的基礎を考慮に入れるべきであることを暗示している。」Hajer, Maarten. 1996. The Politics of Environmental Discourse: Ecological Modernization and the Policy Process. p.280,287.
p98-100:リスク予測、保険の原則、事故の概念。災害対策、将来への備えが通用する産業社会のリスクから、保障不可能、危険予防不可能なリスク社会へ。因果関係に基づき、責任をとるという既存の規則が機能しなくなっている。
p113-116:グローバルなサブ政治の到来。自らが原因となって生み出される制御不可能性、不確実性。副作用。産業社会では社会的だったもの(経済、科学、私的領域と家族)が、サブ政治的なものに変わる。なぜならすべてが、新たに正当化され、審理されなければならなくなるから。産業的近代化が成功したからこそ生じる問題である。反省的近代化、自己適用、自己変容の過程。サブ政治は。国民国家の政治システ
ム、公式の代議制度を超えた政治を要求する。サブ政治は直接的な、下からの、イシューごとの政治を意味する。代議制度を通り越し、政治的決定にその都度個人が参加。例:北海油田ブレント・スパール廃棄に対するガソリン購買ボイコット運動。グリーンピースではなく、テレビを通じ刺激された市民運動
p120:「最終的に考えるならば、一種の「敵のない政治」、反対者や抵抗のない政治が中心となる」!ええええ・・・
p121:グローバルな危機の挑戦により、ナショナルなものを超えた再モラル化が起き、身分意識や階級意識、進歩信仰や没落信仰、共産主義という敵対象の代わりに、世界(環境)の救済という人類のプロジェクトが登場する。グローバルな危険は、グローバルな共同体をつくる。
p123:多国籍企業と各国政府は世界公共性の圧力にさらされる。
p127:テレビへの期待。

 

 


所見
・この本がいかに酷いか。p28-30例えば、グローバルなテロに対して諸国が協力して、世界政治の新しい可能性が開けるといったベックの見立ては、2010年代の現実では、明らかに破綻してしまった。

ゼロサムゲーム的なものの見方に対する徹底した否定という姿勢、例えばp120:「最終的に考えるならば、一種の「敵のない政治」、反対者や抵抗のない政治が中心となる」、p41-42:「目標は、人類に対する犯罪としてテロを世界中どこでも罰することができるようにするということです」。カール・シュミットの懸念、人類、普遍的人権、普遍主義、自由主義、といった美辞麗句に含まれる危うさが全く無視されている。「中立化と脱政治化の時代」(1929)。