浅野楢英『論証のレトリック』ノート

ちくま学芸文庫になっていたので、手に取って読んだ。
全く専門外なので、内容をメモするだけにしておく。

浅野楢英(1996:文庫2018)『論証のレトリック−古代ギリシアの言論の技術』ちくま学芸文庫

はじめに−「言論の技術」とはなにか
p11:古代ギリシアでは言論も思想(思考内容)や思考のはたらきも、「ロゴス」と呼ばれる。ロゴスは多義的な語。言葉、言表、定義、弁論、演説、理法、討論、散文、叙述、物語、理論、推理、計算、理性、論理、理由、比例、割合など。思想がなければ言論はないが、言論を介さないで思考することはできないから。
p14:レトリック(レートリケー)とは、単なる表現の技術、修辞法(言葉のあや)に限定されない。言論の技術である。修辞法はレートリケーの一部でしかない。
p16・17:レトリックは、知識のない者が知識のある者よりも、ものを知らない(専門知識を持たない)人たちの前で説得力を持ってしまうという危険性を含む。プラトンゴルギアス』。
p23:アリストテレス『トピカ』。大衆を相手にする説得には、専門知識では無理で、エンドクサ(通念)に基づいて言論を展開しなければならない。さらに知恵を伴う言論が必要な場合には、教養(パイデイアー、ラテン語のhumanitas)に依拠する必要がある。

 

1章 レトリック(レートリケー)事始め
p33:技術としてのレートリケーの始まり、民主政だったシケリアのシュラクサイの、コラクスとテイシアスが法廷弁論に関する規則をまとめたハンドブックを作成。
p34:プラトンパイドロス』:テイシアスは「真実らしくみえること(エイコス)が、真実そのものよりも尊重されるべきだと見抜いた人である。なぜ尊重されるべきかというと、エイコスは、多数の人にそうだと思われることだから。『ゴルギアス』:レートリケーとは、「説得をつくり出すもの」である。
p35:レートリケーの発展に寄与した人物。テイシアス、トラシュマコス、テオドロス
p38:弁論の配列。1序論(プロオイミオン)、2陳述(デイエーゲーシス)、3証拠(テクメーリオン)→真実らしいこと(エイコス)→保証(ピストーシス)→論駁(エレンコス)、4概括(エパノドス)。法廷弁論のモデル。
p39:紀元前5世紀後半から前4世紀、ソフィストが台頭。プロタゴラスゴルギアス、プロディコス、ヒッピアス、エウエノス。共通点として、道徳的相対主義、確実な知識の可能性に対する懐疑、人間中心主義などがあるが、ソフィストとは元来、学派ではなく、授業料をとって若者たちに教育を授ける職業教師のことを指す。
p40:ソフィストは言論によって人々を説得する能力=徳だと考え、法廷では陪審員を、政務審議ではぎいんたちを、民会では出席者たちを説得する能力を重んじた。
p43:ソフィストの教育方法は、弁論や問答の手本を受講生に暗記させるやり方。アリストテレスは、この方法を批判する。技術の成果を与えるだけでは、その技術を与えることにはならない(『ソフィスト的論駁』34章)。
p44-51:ゴルギアスが紹介する「パラメデスの弁明」。トロイア戦争の英雄パラメデスは、トロイア遠征に行きたがらないオデュッセウスに、内通者だという嫌疑をかけられる。裏切り者でないことを証明するために、パラメデスは、・内通が実行不可能であること、・自分には動機がないこと、・オデュッセウスの告発に矛盾があること(論理的整合生)の3点で反論した。相手の主張から矛盾を引き出すことで、その主張が偽であることを論証する方法を、背理法または否定式と呼ぶ。背理法を最初に用いたのはゼノンだとされる。ゼノンは、「アキレスと亀」や「飛んでいる矢は静止している」という例によって、「動くものが存在する」ことを論駁(ゼノンのパラドクス)。これはパルメニデス存在論形而上学)に反論するために考え出された。ゼノンの方法は、プラトンの対話篇でソクラテスがよく利用する論駁法である。
p52-53:ゼノンの方法が詭弁的に悪用されたものを、争論術(エリスティケー)という。相手の主張の両立不可能な部分をあぶり出し、言い負かすことだけが目的。そのために、多義的な語や意味の不明確な表現をわざと操る。例えば「学ぶ人は無知であり、かつ知者である」とか「嘘をつくことは不可能なことである」とかの詭弁。
p54-55:プラトンのレートリケー批判。『ゴルギアス』『パイドロス』。レートリケーは説得することを目的とするが、それでは事柄についての知識(エピステーメー)をもたらすことはできない。ただ信念(ピステイス)をもたらすだけである。ピステイスは真である場合もあれば、偽である場合もあるような思いなし(ドクサ)にほかならない。プラトンは、一般に技術は取り扱う対象の善を目指すものだと考える。政治術は、人々の心を対象とし、心ができるだけ善いものになり、優れた市民になるようにする技術。対してレートリケーは人々の心にもっぱら快をもたらすことしか考えていない、迎合である。
p58:真実と真実らしいものとは異なる。プラトンによれば真実(真理)を知るためには、哲学(知を愛する営み)の方法であるディアレクティケーが必要。
p59-61:イソクラテスソフィストとも、プラトンとも別の立場。言論の技術を誰にでも機械的に授けることができるとするソフィストたちを非難。現実の場で役に立たないプラトンの哲学も非難。イソクラテスの哲学は、プラトンの哲学(問題とされる事柄についての体系的な知識の探求)とは異なる。厳格な知識を獲得することは人間本性にとって元々不可能なこと。したがって、知者(ソポス)とは「思いなし(健全な判断、ドクサ)によって大概のばあいに最善のものに達することのできる人々」。イソクラテスの思慮分別とは、実生活において何をなすべきかという政治的・倫理的な行為の規範に関する健全な判断(ドクサ)のこと。

 

2章 アリストテレスのレートリケー理論
p64:アリストテレス。説得的なものには、「それ自体だけでただちに説得的で信じられるもの」と「それ自体だけで説得的なものを根拠にして証明されていると思われることによって説得的なもの」の2つがある。
p67:アリストテレスのレートリケー理論の全体図。重要。
p68:『弁論術』3巻のうち、修辞法(レクシス)と配列法(タクシス)の研究は最後の第3巻が当てられるのみで、大部分は説得立証法(ピステイス)の研究。
p71—72:弁論には3種類ある(p72の表、重要)。1、審議弁論(議会弁論)。議会などで集会に集まる人々を相手にする。将来のことに関して、利益と損害に着目しながら、ことをおこなうように勧めたり、制止したりする。2、法廷弁論。裁判官や陪審員を相手にする。過去の行為に関して、正と不正とに着目しながら、相手を告訴したり、自分を弁明したりする。3、演示弁論。冠婚葬祭の儀式などに集まった観衆を相手にする。過去や将来のことにも言及するが、主として現在のことに関して、美と醜、徳と悪徳に着目しながら、人の行為を賞賛したり、非難したりする。

p75:聴衆が説得されるのはなぜか。・事柄のロゴス(論理的説明)によるもの、・語り手のエートス(品性・人柄)によるもの、聴衆のパトス(感情・情念によるもの)の3種類。ロゴスによる説得立証は、事柄の利害、正不正、美醜の論証による。
p78:論証とは、何事かを主張するための理由を説明する言論である。論証には、推論(シユロギスモス)と帰納(エパゴーゲー)がある。推論はいくつかの前提命題から結論命題が論理必然的に導き出されるもの。前提がいずれも真であれば、必ず結論も真である。帰納は、AであるいくつかのものがBであるという個別命題を理由にして、AであるすべてのものがBであるという普遍命題を主張しようとすること。レートリケーでは推論は「説得推論」、帰納は「例証」と言われる。『弁論術』1356b4

p80:アリストテレス論理学の用語、「属する」(ヒユパルケイン)とは、「述語となる」(カテーゴレイスタイ)とも言い換えられる。「属性となる」「属性として当てはまる」。

p83-86:「説得推論」の3つの論拠。「真実らしいこと」(エイコス)、「証拠」(テクメーリオン)(必然的な徴証)、「必然的でない徴証」(セーメイオン)。1、「真実らしいこと」は、大概の場合そうであること。蓋然命題。異論があり得る。しかし、蓋然命題を蓋然的ではない(必然的ではない)ことだけを理由に、これを反論しても意味がない。例外をひとつふたつ見つけて蓋然命題が誤りだということはできない。反論するためには、それが蓋然命題ですらないこと、つまり大概の場合そうではないことを示さなければならない。レートリケーが扱う事柄は主として法や政治や倫理に関すること、人間の行為に関することであり、アリストテレスによれば、「為される行為はすべて他の仕方でもありうる類のものであり」、「どれ一つとっても必然的なものはない」。反対に、必然命題とは「三角形の内角の和はに直角に等しい」とか「地球は太陽の周りを回る」とか。2、「徴証」とは、せっとく推論の前提を結論との関係で特徴付けたもの。3、「証拠」は、全ての場合に、必然的に成り立つもの。「熱が高い者は病気である」「窃盗犯人は罪を犯している」など。「徴証」のすべてが必然的ではないので、「徴証」のすべてが「証拠」ではない。「彼は呼吸が荒い」は「彼は熱が高い」の「しぃうこ」にはならないが、「徴証」ではある。
p87:トポス。通常は「場所」や「領域」のこと。レートリケーやディアレクティケーでは、トポスとは、思想・言論のそれぞれの論拠がみいだされるばしょ・領域をいう。つまり、言論の拠りどころのこと。説得立証の拠りどころ(トポス)としては、ロゴスによるもの(3章)、エートスによるもの(4章)、パトスによるもの(4章)があった。全ての種類の弁論に共通するトポス(5章)というものもある。

 

3章 ロゴスによる説得立証に役立つ固有トポス
p94以下: 審議弁論に固有のトポス 利害・善悪。その行為が利益をもたらすか、害悪をもたらすか。善悪判断は究極目的=最高善=幸福を基準とする。最高善とは、他のもののために追求される善いものではなく、「それ自体のゆえに選ばれ、けっして他のもののゆえに選ばれることのないもの」である『ニコマコス倫理学』1巻7章。アリストテレスの場合、それは観想活動(テオーリアー)である。ただし弁論の場合は、一般人にとっての最高善でよいので、成功、生活の持続、安定的生活などになる。以下、よいものの比べ方の詳細。

p109以下:法廷弁論に固有のトポス 正不正。正義には分配的正義、矯正的正義、交換的(応報的)正義がある。ニコマコス倫理学、5巻。配分的正義は、配分がそれぞれの人の価値や能力に応じてなされていること。矯正的正義は、人と人の間に生じた利害得失に関する不平等を矯正して平等にすること。交換的正義は、人と人の間で交換されるものは互いに等価であること。以下、不正の大きさの比べ方の詳細。
p121:演示弁論に固有のトポス 美醜、徳と悪徳。以下、様々な徳の説明。
p124:賞賛するための理由が、非難するための理由にも転用できる。同じ性質に基づいて逆の主張をいうことができる。例えば。無謀な人を勇気のある人だと賞賛したり、浪費家を気前の良い人だと賞賛したり、慎重な人を冷たい策謀家だと非難したり。同様の内容p152。

 

4章 エートスまたはパトスによる説得立証に役立つ固有トポス
p131-132:『ニコマコス倫理学』1巻13章。人の心にはロゴス(理性的な部分)以外に、無理性的な部分がある。無理性的部分には、ロゴスに与る(いう事を聞く)欲求的部分と、ロゴスに与ることのない生物的部分がある。欲求的部分に属する徳を、エートス的な徳という。エートスとは、ロゴスの指図のもとでロゴスに従うことができる心のこと。習慣。普段の訓練によって変えることができる。
p135:エートス的徳とは、中庸のこと。過剰な感情や、感情の不足はどちらも良くない。適度な感情がエートス的徳。
p136:エートスによる説得立証は、聴き手のエートスに合わせて語る弁論でなければならない。誰にでも同じように語れば、論理は通じるわけではない。聴き手のエートスを無視してものを言っても説得できない。
p138:パトスによる説得立証は、聴き手の感情を誘導する方法。そのためには感情の違いや原因を知る必要がある。例えば、怒りと憎しみは違う。
p142-143:エートスとパトスによる説得立証は、論証の形をとるべきものではない。「…ゆえにみなさんは私を信頼すべきだ」とか「…だから諸君は怒るべきだ」とかにはならない。聴き手の感情を引き起こす時は、説得推論を述べてはいけない。論証はこれこれの前提からこれこれの結論が導き出されるというだけである。パトスによる説得立証とは、たとえば「私は不足を蒙ったけれども、後悔はしていない。彼には利得が残ったが、私には正しさが残ったから」というもの。エートスによる説得立証は、たとえば「それでも私は金銭を与えた。それも、簡単に人を信じてはいけないということを知っていながら」というもの。論理ではなく、行為に訴える。

 

5章 さまざまな共通のトポス
「AにBが属する=AにBが述語となる」、「AはBである」から始まる論理学のおさらい。定義によるトポス、帰納によるトポス、部分によるトポスなど。

 

6章 レートリケーとディアレクティケー
p166:ディアレクティケー。通常、「対話」「問答」と訳される、ヘーゲルの影響で「弁証法」と訳すことも。
p167-169:しかし、古代・中世のディアレクティケーの用法はもっと多義的。ストア派(前3世紀〜)のディアレクティケーは、文法学、意味論、認識論、形式的命題論理学から成る。13世紀ペトルス・ヒスパヌス(法王ヨハネス21世)の『論考(Tractatus)』(『論理学綱要』、中世の論理学の教科書)冒頭では、ディアレクティケー=論理学として使われている。中世における独創的な論理的意味論の「代表(スツポシテイオ)」の理論を含む(意味不明)。近代になって、カントの「超越論的ディアレクティク」は、(1)魂は不死か否か、(2)世界(宇宙)は、(a)空間的時間的に有限か無限か、(b)物質的に無限分割不可能か(原子から成るか)無限分割可能か、(c)その原初の原因として自由な原因が存在するか否か(全ては因果の必然なのかどうか)、(d)その原因として絶対に必然的な存在者が実在するか否か、(3)神は存在するか否か、という形而上学的問題を扱う。それぞれの問題に対して、相反する形而上学的な主張の双方が論証される。ヘーゲルの「ディアレクティク」は。思想または存在が定立(正)と反定立(反)との対立から総合(合)に至る過程を繰り返す論理的発展のこと。神から始まる壮大な形而上学存在論
p169-172:プラトンのディアレクティケー。レートリケーは長い弁論で人を説得する方法。ディアレクティケーは、短い言葉による問答で「物事の何であるか」を探求する方法。ソクラテス的な方法。ものの本質、イデアの探求。『パイドン』では「仮定」の方法。最も確かだと思われるロゴスを過程として立て、矛盾が生じないかどうかを調べていく。『パイドロス』以後、『政治家』などでは「分割と総合」の方法。問われている物事が、どのような上位の部類に含まれるのか、どのような会の類型に分割できるのかを探求していく。
p173:アリストテレスのディアレクティケー。プラトンのように、存在するもの全体の体系的な知識を探求する方法ではない。アリストテレスのディアレクティケーは、どんな事柄についても、「エンドクサ(通年)」を前提に問答を展開できるようにする方法。レートリケーとディアレクティケーに大きな違いはない。エンドクサだから、専門的知識ではないし、完全に正しい知識でもない。偽である場合もある。
P178:アリストテレスのレートリケーとディアレクティケーの共通点。どちらもエンドクサに訴える。異なる前提を見つけることで、互いに反対の主張を結論として導出することができる。どちらも、取り扱われる事柄そのものの知識ではなく、それらの事柄に関する言論の知識である。
p179-180:アリストテレスのレートリケーとディアレクティケーの違い。レートリケーは論述形式。ディアレクティケーは問答形式。レートリケーにはロゴスによる説得の他に、エートスやパトスによる説得もある。ディアレクティケーには論理的な証明だけ。レートリケーが扱うのは、「彼の行為は正しいか」「この政策は有益か」といった個別的問題。ディアレクティケーが扱うのは、「正義とはどういうことか」「有益とはどういうことか」といった普遍的問題。

 

7章 レートリケーと論理学
p184-185:形式論理学は、ディアレクティケーにおける共通のトポスとなる(扱う分野が違っても共通して通用する拠りどころ)。論理学とは、推論形式の妥当性を研究する学問。推論形式が妥当であるというのは、ぜんていがいずれもしんであれば、必ず結論も真になる形式を備えていること。PならばQ. しかるに、P. ゆえにQ.。
p186-187:妥当な推論の例。「地球は惑星であるならば火星は惑星である。地球は惑星である。ゆえに火星は惑星である」。ただし、形式が妥当かどうかは、結論の真偽とは無関係。前提の一つが偽である時に、結論模擬であるような推論は、妥当な形式である。「地球は惑星であるならば太陽は惑星である(偽)。地球は惑星である(真)。ゆえに太陽は惑星である(偽)」は、妥当な推論形式である。また、前提が偽であっても結論が真になる妥当な推論形式もある。たとえば「パリはドイツにあるならばパリはヨーロッパにある(真)。パリはドイツにある(偽)。ゆえにパリはヨーロッパにある」。
p188:妥当でない推論の例。前提がいずれも真であるのに、結論が偽となるような推論。PならばQ. しかるに、Q. ゆえにP.という形式は妥当ではない。これは「後件肯定の誤謬」と呼ばれる。「パリはドイツにあるならばパリはヨーロッパにある(真)。パリはヨーロッパにある(真)。ゆえにパリはドイツにある(偽)」。また、結果的に全て真になっても形式としては妥当でないこともある「地球は惑星であるならば火星は惑星である(真)。火星は惑星である(真)。ゆえに地球は惑星である(真)」。
p190:アリストテレスの論理学では、全称肯定、全称否定、特称肯定、特称否定の4つしか扱えない。全称肯定「すべての人間は動物である」。全称否定「どの人間も動物ではない」。特称肯定「ある人間は動物である」。特称否定「ある人間は動物ではない」。アリストテレスの論理学では、たとえば「ソクラテスは人間である」というような個別命題は扱えない。また、「ある男はすべての女を愛する」というような関係命題も扱えない。
p192:ストア派の論理学は、第3代学頭クリュシッポス(前280頃〜前207頃)による。
p194:中世論理学の代表者はウィリアム・オッカム(1285〜1349)。
p195-196:近世ヨーロッパでは、論理学が衰退。デカルトは論理学を軽視。論理学よりも数学重視(デカルトライプニッツニュートン)。論理学内部では、「ポール・ロワイヤル論理学」(1662)が出現。著者のアルノーとニコーが属していたパリの修道院「ポール・ロワイヤル」から。観念(概念)、精神的なものを重視。論理学を言論の方法ではなく、思考の方法としてとらえる。アリストテレスの論理学では、命題や推論は言語的な対象。しかし、「ポール・ロワイヤル論理学」では「観念」(idée)「判断」(judgement)「推理」(raisonnement)といった思考法則のことに言い換えられる。ただし、これは論理学を認識論と混同する傾向をもたらしてしまった。
p197:より豊かな現代論理学は、ドイツの数学者G・フレーゲ(1848〜1925)の『概念文字(Begriffsschruft)』(1879)以降。それをホワイトヘッドラッセルの『プリンキピア・マテマティカ』が継承発展。
p203:自然の必然性と論理の必然性は異なる。自然の必然性は自然法則に従うこと。この世界においては事実上、他の仕方ではあり得ないということ。重力のない地球とか、透明な太陽とかがあれば、結果は変わる。他方、論理の必然性は「PならばP」というような命題であり、これはPの内容が真であろうと偽であろうと成り立つ。

 

むすび
p206:共和制ローマでは議会弁論や法廷弁論が盛ん。帝政期になると弁論は学校教育の訓練題材と化してしまう。中世には、レトリックは三自由学科の1つになる。ただしその内容は修辞法(表現・文彩)のみに限られ、文法学や弁償術は、レトリックの外に置かれてしまう。ともあれレトリックは、19世紀までは学校教育で支配的位置を占める。そのか、ヴィーコ(1668〜1744)の『学問の方法』などがある。19世紀末には教育機関で教えられなくなる。
p208:レトリックを修辞学に狭めようとする動き。
p209:1960年代以降の欧米におけるレトリック復興。文学理論、哲学。バルト『旧修辞学』(1970)、ペレルマン『説得の論理学—新しいレトリック』(1977)、ポール・リクール『生きた隠喩』(1975)。日本でも、三輪正『議論と価値』(1972)、佐藤信夫『レトリック感覚』(1978)『レトリック認識』(1981)、澤田昭夫『論文のレトリック』。ただし、依然として修辞学に限定されたレトリック。
p210:1958年、ペレルマンとオルブレクツ・テュテカの『議論法の研究—新しいレトリック』が発表される。修辞学と文彩に限定せず、論理的観点から弁論の技術を研究している。ペレルマン『法律家の論理』(1976)など。