観た映画 2014-15

2014-15年に観た映画(邦題→英題、必要に応じて原題)

特に印象に残っているものは太字

さらに特別に印象に残っているものは中文字、大文字

 

フルメタルジャケット Full Metal Jacket
ノーカントリー No Country for Old Men
ファーゴ Fargo
クラウドアトラス Cloud Atlas
127時間 127 Hours
シャイニング The Shining
ダーティハリー Dirty Harry
プレステージ The Prestige

ものすごくうるさくてありえないほど近い Extremely Loud and Incredibly Close

自由を我らに Freedom for Us  仏:À nous la liberté

ミッドナイトエクスプレス Midnight Express
革命前夜 Before the Revolution
ルーパー Looper
戦場でワルツを Waltz with Bashir

カリガリ博士 The Cabinet of Dr. Caligari  独:Das Cabinet des Dr. Caligari

モーターサイクルダイヤリーズ The Motorcycle Diaries

コズモポリス Cosmopolis
脳内ニューヨーク Synecdoche, New York

バトル・イン・シアトル Battle in Seattle
エターナル・サンシャイン Eternal Sunshine of the Spotless Mind

モダン・タイムス Modern Times
レニングラードカウボーイズ・ゴー・アメリカ Leningrad Cowboys Go America

レニングラードカウボーイズ・モーゼに会う Leningrad Cowboys Meet Moses

過去のない男 The Man without a Past  フィンランド:Mies vailla menneisyyttä

チャーリー・ウィルソンズ・ウォー Charlie Wilson's War

リンカーン Lincoln
コッホ先生と僕らの革命 Lessons of a Dream  独:Der ganz große Traum

ワレサー連隊の男 Walesa, Man of Hope  ポーランド:Wałęsa, Człowiek z nadziei

アクト・オブ・キリング The Act of Killing
憎しみ La Haine

ブラインド・フィアー Penthouse North

セデック・バレ 賽德克·巴萊

存在の耐えられない軽さ The Unbearable Lightness of Being

武器よさらば A Farewell to Arms

ドクトル・ジバゴ Doctor Zhivago

大いなる沈黙へーグランドシャルトルーズ修道院  仏:Le Grand Silence

アラバマ物語 To Kill a Mockingbird

MASH
理由なき反抗 Rebel Without a Cause

独裁者(チャップリン) The Great Dictator
エリザベスーゴールデンエイジ Elizabeth: The Golden Age

パララックス・ビュー The Parallax View

メリー・ポピンズ Mary Poppins

アレクサンドル・ネフスキー Alexander Nevsky

ユリシーズの瞳 Ulysses' Gaze  ギリシャ:Το βλέμμα του Οδυσσέα

イージーライダー Easy Rider
キング・オブ・コメディ The King of Comedy
戦艦ポチョムキン Battleship Potemkin  露:Бронено́сец «Потёмкин»

月世界旅行 A Trip To The Moon  仏:Le Voyage dans la Lune

メリエスの素晴らしき映画魔術
フリーダ Frida
崖の上のポニョ
黄金狂時代 The Gold Rush
気狂いピエロ Pierrot Le Fou

猿の惑星ライジング Dawn of the Planet of the Apes

キル・ビルvol.1  KILL BILL
キル・ビルvol.2
ビフォア・サンライズ Before Sunrise
ビフォア・サンセット Before Sunset
ビフォア・ミッドナイト Before Midnight
マチュア(キェシロフスキ) Amator 
傷跡(キェシロフスキ) Blizna
新ドイツ零年 Allemagne année 90 neuf zéro

コンプライアンス Compliance
ONCEーダブリンの街角で ONCE
シテール島への船出 Vayage to Cythera  ギリシャ:Ταξίδι στα Κύθηρα

ウォルト・ディズニーの約束 Saving Mr.Banks
THIS IS ENGLAND
ドライヴ Drive
イントレランス Intolerance

ビッグ・フィッシュ Big Fish
愛、アムール Amour
郵便配達員は二度ベルを鳴らす The Postman Always Rings Twice

奇人たちの晩餐会 The Dinner Game
インターステラー Interstellar
ザ・マスター The Master
真夜中のカウボーイ Midnight Cowboy

マチュカー僕らと革命  Machuca
アメリカン・ビューティー American Beauty
アミスタッド Amistad
カラー・オブ・ハート Pleasantville

ノッティングヒルの恋人 Notting Hill
トゥルーマン・ショー The Truman Show

ハンガリアン
Do the Right Thing
グランド・ブダペストホテル The Grand Budapest Hotel

ゼロダークサーティー Zero Dark Thirty
東京物語
ブレイブハート Braveheart
イワン雷帝 Ivan Groznyi  露:Иван Грозный

ネブラスカ Nebraska
未知との遭遇 Close Encounters of the Third Kind
人生、ここにあり Si può fare

トレインスポッティング Trainspotting
神々のたそがれ Hard to be a God
タンジェリン Tangerines  エストニア:Mandariinid

ドイツ零年 Germany, Year Zero  伊:Germania anno zero

ベリッシマ 伊:Bellissima

1936年の日々  Days of '36  ギリシャ:Μερες του '36

薔薇の名前 The Name of the Rose  仏:Le Nom de la Rose

ブレッケンリッジ.キース著、堀内隆行訳(2017:原著2014)『生体認証国家−グローバルな監視政治と南アフリカの近現代』岩波書店。

ブレッケンリッジ.キース著、堀内隆行訳(2017:原著2014)

『生体認証国家−グローバルな監視政治と南アフリカの近現代』岩波書店

 

序文:本書は、南アフリカアパルトヘイト国家の原因を、バイオメトリクスの科学(計量生物学)と技術(生体認証)に関するグローバルな議論の影響から説明するものである(v頁)。

 

序章 グローバルな生体認証の世界

p1:生体認証による登録システムは、選挙人名簿の作成、福祉給付金の分配、身分証明書、移民の管理など様々な分野で活用されている。これらは南アフリカで初めて開発された。

p2-6:国家とは何か。3つの理解。

マキャベリホッブズヘーゲル。国家を人格のように看做し、単独で至高の行為主体と考える。

フーコー。国家とは合理化や規律化、統治の分散した主体である。国家を統治者と被治者の言語と実践として捉える言説研究。住民の生物的健康に関心を払う国家。

・アフリカの国家は、住民の健康について関心を持つレベルになく、それを追跡する能力も情報もない。植民地以来、交易管理の門衛国家。人格的な国家理解も、フーコー的な国家理解も通用しない。「アフリカ大陸の国家は、他地域について歴史家が詳細に示してきた文化的任務をほとんど遂行しこなかった。また、社会的なものに対する支配も、存在したとしても長いあいだ弱体だった。これらが意味するのは、近代国家を理解するための二つの有力な方法――擬人化および人類学と呼ぼう――がともに本書の計画には不適当なことである。だが幸運にも、方法はもうひとつ存在する。それは物質主義的・技術的国家理解」(5頁)である。これは、国家とは観念であって、想像の産物であるという批判的な理論を部分的に否定している立場だ。ミリバンドの「国家は実態ではなく、それ自体としては存在しない」という考えは否定される。国家は確かに実体として、道路、病院、通信回路、コンピュータ、書類整理棚、武器に現れている。

 

P6-7:文書処理。ただし、議会や行政の残した文書を読むという方法では、南アフリカ国家には適さない。それは旧式の文書的基盤に依拠しない国家だからである。「筆者が生体認証国家について語るとき念頭にあるのは、身元確認の技術と構造を中心として組織されている国家である。この技術と構造は、近代国家を生み出してきた、書記行為による旧式の身元確認とはまったく違う」(7頁)。

 

p10- 13:バイオメトリクス=生体認証は、機械によって正確に計測された人体の特徴に基づく、自動化された個人の識別のことだと言える。そして、その源流には、生物学データ分析の統計科学、とくに数学的方法(相関係数、回帰、適合度検定などの技術)がある。

創始者:フランシス・ゴルトン。1900年代からUCLのゴルトン研究所。計量生物学と優生学の親密な関係の中で生まれた。

前史:19世紀フランスの警察で開発された人体測定法。1880年代パリ警視庁のアルフォンス・ベルティヨンが考案。ゴルトンは指紋法に頼る。

「こうした行政上の生体認証は、人体の模様の数的表現といえる。初めは画像――ふつう指紋、ときに虹彩や顔――かもしれないが、模様や微細な点の抽出を経てつねに数へと変換され、万人不同という主張を支える。」

20世紀を通して、生体認証は文書行政に反対するものとして進展してきた。第一に、ゴルトンが考案した指紋法導入計画と生体認証行政は、読み書きのできないイギリス植民地の臣民を身元確認する欲望によって動機づけられていたこと。第二に、たしかに指紋採取の初期には身体の情報が紙の記録にされていたが、そもそも生体認証は用語のどのような意味においても、文書ではなく、その情報を保存するデータベースも文書館ではない。生体認証のデータベースはICメモリやスマートカードといった不定形な形で存在する。また、文書管理は官僚によるもので、どうしてもミスや偽造が避けられないが、生体認証による身元確認はこうした限界を一掃する確実性を原則としている。

 

p14-15:生体認証はどこでより活発か。

ヨーロッパや北米でも生体認証パスポートはある。しかし、これらの地域ではプライバシーに対する強力な世論(とそれを考慮せざるを得ない政治システム)があるために、非常に限られた監視能力しかない。対して、ヨーロッパや北米にいる外国人移民に対しては、より徹底した生体認証による身元確認が適用されている。生体認証の適用度合いには、植民地帝国の遺産が刻印されている。そして、生体認証による市民・選挙人登録がされているのは、技術的に進んだ北半球の国々ではなく、技術的には遅れていると考えられがちの南半球の国々である。最も極端な事例が、インドのアーダール・プロジェクト。法的根拠を有しない、民営の生体認証登録。ガンディーが拒否したものが、南アフリカに温存されて、今再びインドへ流入

 

p17-19:「南アフリカは20世紀の植民地帝国にとって、一方では人種隔離技術の、他方では――ハンナ・アレントが初めて示唆したように――官僚制と専制の結合の特別な実験場だった。…官僚による人種支配が早くから設計され進展した」。そして、生体認証に関して、世界中の諸国が最近10年間で採用してきた技術が、南アフリカで最も早くかつ完全に開発された。一般に、ゴルトンの統計学と監視の研究は、ベルティヨン(パリ警視庁)、ケトレ(ベルギー統計学者)、エドワード・ヘンリー(ロンドン警視総監)、J・エドガー・フーヴァー(FBI)らの歴史の中に位置付けられ、ヨーロッパ・アメリカ的なものとされているが、ゴルトンはより適切には、「植民地帝国の知識人」であった。ゴルトンは南部アフリカ旅行で得た人種的知見を統計学優生学と融合させた。ゴルトンは、奴隷制への人道的非難を退けるような立場の人間で、アフリカ人は強制労働に適している遺伝的集団だと考えていた。彼はチャールズ・ダーウィンの従兄弟で、個人が人種集団の規定から逃れられないと考えていた。エドワード・ヘンリーも、1900年にチェンバレン(当時、植民地相)の命で南アフリカに犯罪捜査課設置のために派遣されていた。

 

p21:ガンジーの生体認証に関する立場は微妙。1904年には、読み書きのできないインド人にも利用可能な署名の道具として、指紋を行為的にみていた。しかし、1906年指紋認証が人種隔離に利用される危険性を悟ると、抵抗運動を組織。けれども、1908年には大衆による自発的登録という提案をしている。

 

p25:生体認証統治の動機は何か。フーコーウェーバーの国家建設を統治や合理化の産物と見なす一般的説明は使えない。代わりに、20世紀の南アフリカにおける「革新主義」の影響を考慮。

 

観た映画 2013

2013年に観た映画(邦題→英題、必要に応じて原題)

特に印象に残っているものは、太字

さらに特別に印象に残っているものは、中文字、大文字

 

 

ドライビング・ミス・デイジー Driving Miss Daisy

ライフ・オブ・パイ Life of Pi

アルゴ ARGO

イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ Exit Through the Gift Shop

桐島、部活やめるってよ

シカゴ Chicago

NINE

SOMEWHERE

フーリガン Hoologans

スミス、都へ行く  Mr.Smith Goes to Washington

アイアン・スカイ Iron Sky

Dr.パルナサスの鏡 The Imaginarium of Doctor Parnassus

ボラットー栄光なる国家カザフスタンのため Borat

サルトルボーヴォワール Les amants du Flore

バッファロー’66  Buffalo'66

グッドナイト・アンド・グッドラック Good Night, and Good Luck

1900年 Twentieth Century  伊:Novecento

パールハーバー Pearl Harbor

オーケストラ・リハーサル   Orchestra Rehearsal

ラフマニノフ Lilacs

アメリカン・ドリームズ American Dreamz

アンダー・グラウンド Underground Подземље

カルラのリスト  Carla

ニュー・シネマ・パラダイス  Cinema Paradiso  伊:Nuovo Cinema Paradiso

マーラー Mahler

2001年宇宙の旅 A Space Odyssey

移民(チャップリン) The Immigrant

隠された記憶 Hidden  仏:Caché

白いリボン The White Ribbon

時計じかけのオレンジ Clockwork Orange

地獄に堕ちた勇者ども The Damned  Götterdämmerung

ミュンヘン Munich

かいじゅうたちのいるところ Where the Wild Things Are

サンキュー・スモーキング Thank You for Smoking

シカゴ In Old Chicago  1938

ファクトリー・ガール Factory Girl

17歳の肖像 An Education

ファニーゲーム Funny Games

ガタカ Gattaca

ソハの地下水道 In Darkness  ポーランド語:W ciemności

エンド・オブ・ホワイトハウス Olympus Has Fallen

マンデラの名もなき看守 Goodbye Befana

画家と庭師とカンパーニュ Dialogue avec mon jardinier

コレラの時代の愛 Love in the Time of Cholera

ジョーズ Jaws

アンナ・カレーニナ Anna Karenina

グレードギャッツビー The Great Gatsby(ディカプリオ版)

パシフィック・リム Pacific Rim

ルノワールー陽だまりの裸婦 Renoir

ストーリー・オブ・ウィキリークス We Steal Secrets

ラッシュ Rush

アバウト・タイム About Time

キャプテン・フィリップス Captain Phillps

メトロ・マニラ Metro Manila

ゼロ・グラヴィティ Gravity

あなたを抱きしめる日まで Philomena

それでも夜は明ける 12 years a slave

ホワイトハウスダウン White House Down

ハンナ・アーレント Hannah Arendt

愛のむきだし

パリは燃えているか Is Paris Burning?

アウトレイジ・ビヨンド

 

 

 

 

 

 

 

観た映画 2011-12

2011-12年に見た映画(邦題→英題、必要に応じて原題)

特に印象に残っているものは太字

さらに特別に印象に残っているものは中文字、大文字

 

アジャストメント The Adjustment Bureau

ミスト The Mist

老人と海 The Old Man and the Sea  1958

ヴェニスの商人 The Merchant of Venice 2004

スクリーム4 SCREAM4

世界侵略:ロサンゼルス決戦 Battle of Los Angeles

猿の惑星ー創世記 Rise of the Planet of the Apes

ミッション8ミニッツ Souce Code

自転車泥棒 The Bicycle Thief

ベルリン天使の詩 Wings of Desire  独:Der Himmel über Berlin

ベッカムに恋して Bend It Like Beckham

アメイジング・グレイス Amazing Grace

オペラ座の怪人 The Phantom of the Opera  2004

LIFE IN A DAY

ドニ・ダーコ Donnie Darko

カポーティ Capote

J・エドガー J. Edgar

地獄の黙示録 Apocalypse Now

扉を叩く人 The Visitor

キャッチミー・イフ・ユー・キャン Catch me if you can

パリ20区、僕たちのクラス The Class  仏題:Entre les murs

戦場のピアニスト The Pianist

市民ケーン Citizen Kane

ゴッド・ファーザー1 The Godfather part1

ゴットファーザー2 Part2

PARIS

カサブランカ Casablanca

羊たちの沈黙 The Silence of the Lambs

フィラデルフィア Philadelphia

タイム TIME

許されざる者 Unforgiven

アラビアのロレンス Lawrence of Arabia

ツリー・オブ・ライフ The Tree of Life

ミケランジェロの暗号 My Best Enemy  独:Mein bester Feind

英国王のスピーチ The King's Speech

ブラック・スワン Black Swan

ブラッド・ダイヤモンド Blood Diamond

未来を生きる君たちへ In a Better World

マイ・フェア・レディ My Fair Lady

サンセット大通り Sunset Boulevard

アビエーター The Aviator

300

風と共に去りぬ Gone with the Wind

ニュールンベルク軍事裁判(前後編) Nuremberg

12人の怒れる男 12 Angry Men

西部戦線異常なし All Quiet on the Western Front

ギルバート・グレイプ What's Eating Gilbert Grape

レイダース(インディージョーンズ) Raiders of the Lost Ark

インセプション Inception

ワールド・オブ・ライズ Body of Lies

ひまわり Sunflower  原題: I Girasoli 

インディージョーンズー魔宮の伝説 The Temple of Doom

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ Once Upon a Time in America

100,000万年後の安全 Into Eternity

グラン・トリノ Gran Torino

グッバイ・レーニン Good Bye Lenin!

椿三十郎

羅生門

インディージョーンズー最後の聖戦 手ェLast Crusade

インディジョーンズークリスタルスカルの王国 Kingdom of the Crystal Skull

タクシードライバー Taxi Driver

天国と地獄

グラディエーター Gradiator

コラテラル Collateral

第三の男 The Third Man

ガンジー Gandhi

マルコムX  Malcolm X

赤い風船 Le Ballon Rouge

ダークナイト The Dark Knight

ダークナイト・ライジング The Dark Knight Rises

シェーン Shane

明日に向かって撃てButch Cassidy and the Sundance Kid

ウェストサイド物語 West Side Story

史上最大の作戦 The Longest Day

博士の異常な愛情…略 Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb

アウトレイジ

善き人のためのソナタ The Lives of Others  独:Das Leben der Anderen

七人の侍

プロメテウス Prometheus

コクリコ坂から

民族の祭典 Olympia

おおかみこどもの雨と雪

ローマ法王の休日 We Have a Pope  原題:Habemus Papam

不都合な真実 An Inconvenient Truth

ハートロッカー The Hurt Locker

レ・ミゼラブル Les Misérables  2012

007カジノ・ロワイヤル Casino Royale 2006

アンタッチャブル The Untouchables

ヒトラーの贋札 The Counterfeiters

オリバー・ツィスト Oliver Twist  2005

國民の創生 The Birth of a Nation

ミッドナイト・イン・パリ Midnight in Paris

マーガレット・サッチャー The Iron Lady

アーティスト The Artist

ニーチェの馬 The Turin Horse  洪:A torinói ló

さらば青春の光 Quadrophenia

カッコーの巣の上で One Flew Over the Cuckoo's Nest

ダージリン急行 The Darjeeling Limited

ラストマンスタンディング Last Man Standing

會議は踊る The Congress Dances  独:Der Kongreß tanzt

アマデウス Amadeus

ぜんぶ、フィデルのせい Blame It on Fidel  仏:La Faute à Fidel!

バグダット・カフェ Bagdad Cafe  原題:Out of Rosenheim

レイジング・ブル Raging Bull

華麗なるギャッツビー(レッドフォード版) The Great Gatsby  1974

96時間 Taken

イングリッシュ・ペイシェント The English Patient

大竹弘二(2018)『公開性の根源−秘密政治の系譜学』太田出版 (1)

 

また自分なりの要約。5回くらいに分けて書く予定。(ただし、読書会(2018年度・前期) | egoist political theory こちらの読書会に出席して得た観点も多少盛り込まれている)

 

序論

・問題関心と本書の目的

執行が規範を超える、法の規範的側面が統治の暴力によって乗り越えられてしまう、例外状態の常態化が起きている、という警鐘は様々な見地からなされている。フーコーネグリアガンベンなど、いろいろ思いつく。しかし、統治が法や規範を超えて機能するということは、現代に始まった新しい現象ではない。

そもそも近代国家は宗教戦争の混乱状態(例外状態)から誕生したのであり、その際に行政執行の活動こそが近代国家の本義であった。シュミットも、「あらゆる国家活動の始まりは行政である。のちになってようやくそこから立法と司法が分離したのである」と述べている(Carl Schmitt, Diktatur und Belagerungszustand. 本書12頁)。

したがって、通常我々が近代国家を考える際に規範的に看做している前提は、考え直されなければならない。つまり、民主的にせよ非民主的にせよ、まず主権があって、その主権の命令通りに統治や行政が粛々と仕事を進めるという見方は修正されなければならない。法は自分自身を実現することはできない(シュミット)。同じく主権者は自分自身を実現することができない。主権者は自分だけでは統治することはできない。統治や行政が、実際に事に当たるのである。したがって、統治には法や主権者を常に追い越していく契機が内在している。「主権に対する統治の優位」(16頁)は、近代国家の本質的な傾向である。

すると大事なのは、主権者が鎮座する部屋ではなく、そこに通じる「前室」、舞台裏といった秘密の空間の分析である。そこでは、目立つ権力者の周りを取り巻く、大臣、侍従、侍医などが実際の執行に深く関わっている。「近代主権概念が誕生するこの時期(16世紀:引用者)には、法や道徳から自由な統治技法についての数多くの言説が生み出された。そしてこうした行政統治術の系譜は、近代のポリツァイ学を経て、今日の社会国家(福祉国家)にまで繋がっている。ある意味で今日の国家は、それが生まれた近代初期の原形態に回帰しつつあると見ることができるかもしれない」(11頁)。

「近代においては法や主権のような規範的審級によって政治の公開性が担保されてきたとするなら、例外状態はつねにその影として取り憑いてきた。本書が試みるのはいわば、近代的な公開性の根源にあるこの秘密政治の系譜学である」(16-17頁)。

 

・本書の構成

本書が三部構成になっていることは、重要である。なぜなら、本書の三部構成は、大雑把にいってしまえば、筆者が近代国家の変遷(系譜学)を三段階で捉えているということに対応しているからである。

つまり、第1段階は16・17世紀。中世政治秩序が崩壊し、混乱と内戦が蔓延する中で、権力獲得・維持のためには陰謀や術策といった秘密(アルカナ)の統治が必要とされた時代。第2段階は17・18世紀。バロック絶対王政期。中世宗教秩序に依存しない近代国家の秩序がある程度安定してくる中で、政治権力は君主の栄光や主権を典礼や祭典を通じて見せる(代表的公共性)ようになった時代。第3段階は19・20世紀。社会国家(福祉国家)の成長の中で、一度は主権の公開性が目指された近代国家が、再び秘密の統治によって運営されていくようになる時代。

言い換えると、少し図式的すぎるかもしれないが、「第1部→第2部→第3部」は、「秘密→公開性→秘密」または「統治→主権→統治」と整理できる。ただし、最初の秘密=統治と、3段階目で回帰してくる秘密=統治は当然同じものではないだろう。この点については後々詳しく述べられる。

 

つづく。

書籍購入2018.6 ①

ちょっと書籍購入記録をここに書くのは意味がないので、やめようかなと考えている。

というのも、ここに記録していないで買っている本があまりにも多く、かと言ってここに載せている本に何らかの基準があるわけではないからだ。だったらここに書き散らしている本は一体何なのか。標本サンプルとしての意味くらいしかない。しかも標本サンプル、For what?である。

 

が、とりあえずまだ惰性で書く。

 

ピーター・バーガー、トーマス・ルックマン著、山口節郎訳(2003)『現実の社会的構成ー知識社会学論考』新曜社

 

港千尋(2014)『革命のつくり方ー台湾ひまわり運動ー対抗運動の創造性』インスクリプト

 

松浦寿輝(2018:1994)『平面論ー1880年代西欧』岩波現代文庫

 

Garland, D. 2016. The Welfare State [A Very Short Introduction]. Oxford university Press.

 

Shapiro, M. 2016. Politics and Time. Polity.

 

 

大竹弘二(2008)「処罰と正常性−例外状態のなかの司法と犯罪統制」『現代思想』36号13巻

いつもどおり、要約しただけ。

大竹弘二(2008)「処罰と正常性−例外状態のなかの司法と犯罪統制」『現代思想』36号13巻。

 

p142:犯罪に対する処罰の仕組みは、応報原理(犯された罪の内容から、それと等価の処罰が自動的に演繹できるとする)を根源とする法的カテゴリーだけで説明しきれるほど単純なものではない。処罰は単なる法適用に尽きるものではなく、社会的実践の領野に属している。ゲオルク・ルッシェとオットー・キルヒハイマーの『処罰と社会構造』(1939)は、処罰の実践は決して単に法律的な問題に限定されず、時代ごとの経済的生産関係に規定された具体的社会制度として考察されなければならない、と論じた。これを引き受け発展させた、フーコーの『監視と処罰』(1975)は、監獄や精神病院を規律訓練権力を作り出す社会のテクノロジーとして描き出した。

その時代の社会経済構造と刑罰制度の関係を論じたものとして、他にもMichael Ignatieff. 1978. A Just Measure of PainやAndrew Scull. 1977. Decarcerationなどがある。

 

p143:処罰は、社会秩序そのものの「正常性(Normality)」を維持する実践として考える必要がある。19世紀末以降のチェザーレ・ロンブローゾやエンリコ・フェリら新刑法学の「社会防衛論」が論じていたことは、刑法の任務は犯された罪への応報よりも、罪を犯した者を社会的な正常性へ適合させることであった。

このように、刑罰の実践には、法の適用に先立って、正常性についての決定があるはずである。法が適用され、実行的であるためには、その内容が社会的に秩序の正常な状態に適っていると受け入れられる必要がある。しかし当然、正常性を説くことは、法を守ることと、特に例外状態の問題において相克する。

 

p144:ルッシェとキルヒハイマーの『処罰と社会構造』(1939)。1970年代以降、フーコーの『監視と処罰』で取り上げられるなど、処罰と権力の問題に批判的関心を寄せる研究者によって再注目される。『処罰と社会構造』と『監視と処罰』に共通するのは、処罰というものが単なる法的システムの決定の結果ではなく、社会経済的な構造からの影響を受け、時代ごとに目的も手段も大きく変化するという視点を持つことである。ルッシェとキルヒハイマーの場合は、マルクス主義の影響が強く、処罰を経済的な下部構造に規定された実践として捉える見方が、より明確に取られている。罰金刑、身体刑、自由刑といった行刑の変遷は、各時代の経済構造において必要とされる労働力の特徴や需給関係に大きく依存しているとされ、処罰制度の発展は、資本主義的生産様式の発展と併走していた。したがって、犯罪者がいかに処罰されるか、という問題は犯罪自体の統制とは関係がなく、労働市場の状況や都市環境の繁栄である、と考えるのである。18世紀になって残虐な刑罰が減るのは、人道主義による達成ではなく、資本主義とそれが要請する労働者の問題である。

 

p145:このように、処罰の問題を法的カテゴリーを超えて分析しなければ意味がないという姿勢は、彼らのナチス時代の刑法の経験が強く影響している。その特徴は、一言で「罪刑法定主義の解消」と要約できる。法律に違反している行為が罰せられるのではなく、その行為を禁じる法律が存在せずとも、「健全な民族感情」にそぐわないとみなされる行為が処罰されるのである。「健全な民族感情」という前法律的な概念が法的な概念を超えて、決定を進める。キルヒハイマーは、その萌芽をヴァイマル共和国末期において既に、「二段階合法性」(通常の方法的体系の上に、健全な民族感情のような超合法性または「正常性」が機能する)として記述していた。これは、ヴァイマル共和政において、社会秩序の混乱を収拾するために乱発された大統領緊急命令の日常化のことを念頭に置いたものだった。世界恐慌以後、危機の恒常性の名の下に、行政が立法と司法の法体系を超越した決定を行う慣例が、その後の合法性ではなく正常性による統治をもたらすこととなった。 

シュミットも、政治的立場は真逆ながら、同様の問題意識を持っていた。彼は中立化の形式的保障でしかない自由主義的な法体系を批判するなかで、秩序の「正常性」の概念に注目する。法規範はどこまでも中立と形式だけで成り立つことはなく、それを前提のレベルで支える「正常性」があるはずであり、それに無自覚であると、法とは諸党派が自分の都合の良いように解釈して政治利用できる戦術的な武器でしかなくなってしまう。ただ中立的なだけの合法性は、「具体的秩序」を持たないが故に、その場その場での権力者によって空洞化させられてしまう。実定法を超えた秩序感を認めない法実証主義では、法運用の無限の拡大を抑えることができないがゆえに、かえって恣意的な決断主義を生み出しやすい。シュミットは、それならば、初めから「正常性」「具体的秩序」を意識化した法体系による安定性を支持すべきだと考える。シュミットにとって自由主義法治国家と法実証主義罪刑法定主義は、形式的なものですべてを治めることができるという誤った考えであり、法を基礎付けている実質的な正義、「正常性」が欠けている。この点で、キルヒハイマーらとシュミットは意見を違うのであり、前者は「具体的秩序」こそが法の恣意的な運用であるとして批判するのであるが。キルヒハイマーらにとって、こうした正常性は、法の安定性を支えるものというよりも、ブルジョワ的経済構造の安定性を維持したい立場から見た恣意的な「正常性」でしかない。(p147)

 ※C・シュミット「法学的思惟の三種類」『シュミット著作集1』所収。

このように、合法性を超えた正常性によって処罰の基準が決まるとなれば、事後法も問題ないことになるし、法律違反者が裁かれるのではなく、社会の正常性からみて逸脱的だとされる場合は裁かれることになり、合法性は空洞化する。大竹(2008)は、「法運用が法を超える」状態と表現し、シュミットの定義した例外状態の出現だとしている。(p147)。

けれども、それでは危険なシュミット、ナチスの考えを退ければ、解決かといえば、それほど単純ではない。法には、自らが前提としている正常性によって、逆に超越されてしまうという問題が常に存在するのである。「法はそれ自身だけで秩序を構成できるのではなく、秩序そのものの正常化に関わる実践の契機を不可避的に伴うのだとすれば、そうした緊張関係を法から払拭することは決してできない」(p147)。このことは、19世紀末から20世紀初頭の「刑法学論争」以来すでに議論されてきたことだった。それは、アンゼルム・フォイエルバッハ(哲学者フォイエルバッハの父親)の自由主義的古典刑法学(旧派)が、実証科学的知見を法学に導入しようとする社会防衛論(新派)によって挑戦を受けた論争である。

 

p148:旧派、すなわち近代刑法学は、罪刑法定主義、「法律なくして犯罪なし」の原則を打ち立てた、自由主義的な刑法学である。これは、それ以前の絶対主義的な警察国家に対する批判として、ドイツ的文脈の中で登場したものである。絶対主義的警察国家とは、18世紀絶対主義のポリツァイ(内務行政=警察)思想に基づく、犯罪者に対する具体的刑罰が犯罪を抑止するという、特別予防を重視してきた。フォイエルバッハが批判したのは、この絶対主義的警察国家が含む恣意性であり、犯罪が犯罪であるためには、あらかじめ法律によって定められている必要があり、法律において公に規定されていることによる威嚇効果で犯罪は抑止できるとする一般予防を抵抗して提示したのである。

フォイエルバッハ的な法治国家の学説は、しかし、それ以後、新派刑法学からの挑戦を受けることになる。新派が重視したのは、法律の普遍性や一般性、罪刑法定主義といった形式ではなく、犯罪原因に着目した社会政策的な措置であった。刑法は法律の形式的な領域にとどまらず、生物学、社会学、心理学などの蓄積を利用した犯罪原因の科学的分析にも依拠すべきとの姿勢。特にイタリアで、ロンブローゾ(生物学的類型)、フェリー(社会経済的背景)、ガロファロなど。

それを受けて、ドイツではリストが『刑法における目的思想』、後にマールブルク綱領と呼ばれる講演を行ない、犯罪からの社会防衛こそが刑法の目的であり、そのためには、罪を犯したものを責任能力のある自由な行為主体として処罰するだけでは不十分であり、犯罪を引き起こす社会的条件を対象とする政策科学に役割を認めるべきであると主張した。新派にとって犯罪とは、単なる法学の問題ではなく、刑事・社会政策によって取り除かれるべき社会的原因の問題である。「社会防衛」という言葉が盛んに用いられるのは、このような刑法学論争の新派の台頭(象徴的には1889年にリストらによって創設された「国際刑事学会」が「社会防衛」を標語として採用するなど)の結果であった。

 

p149:自由主義的な旧派から社会防衛を重視する新派への転換は、法概念としての犯罪から、犯罪を犯す人間(とその社会的背景)へ関心の中心を移すことと言い換えられる。旧派にとっては、犯罪とは何より犯罪行為であって、つねに存在する犯罪者という考えは取られない。対して新派の論理によれば、特定の生物・社会・経済的カテゴリーから、犯罪行為とは独立して犯罪者が存在することになる。犯罪学criminologyというディシプリンが誕生したのが、19世紀末であることは偶然ではない。犯罪学とは、犯罪について単なる法学の領域を超えて、犯罪がなぜ起きるのか、犯罪を減らすためには社会経済的にどのような政策が必要か、を論じる学である。この流れの中に、社会政策が法学に優越する契機があることは否定できない。犯罪者の具体的状況や性質に着目した治療的視線や保安処分が、刑罰議論の中に参入してくる。

 

p150:重要な変化は、社会防衛論の立場に立つ場合、すでに起きた犯罪(法学が対象にするのは本来こちらだけだが)だけではなく、これから起きうる犯罪に対する予防も重要な対象になることである。ここに、刑法の大原則であったはずの罪刑法定主義を超える実戦が入り込む隙ができる。したがって、大竹は「この「刑法学派の争い」には、19世紀末から20世紀初頭にかけて起こった司法的権力そのものの地位の根本的な変質が表現されている」とし、「法の代わりに、社会の「正常性」が秩序の安定性の基準として現れてくるということが決定的」になったと強く述べる。

フーコー『社会は防衛しなければならない』41頁。司法が、社会の「正常化」のために、実証科学的な技術(人類学、社会学、心理学、生物学、医学)への依存を強めていくことを指摘。

 

p150−151:同様の論争は、戦前の日本にもあった。旧派を支持する瀧川幸辰と、新派を支持する牧野英一の論争。

 

p154:以下、しばらくドイツの話。

このような問題は、ナチズムが倒れた戦後社会には関係がないこと、ではない。法律の規定に基づく正不正よりも、正常性という観点からみた、安全へのリスクになるような逸脱者を取り締まるという傾向は現代社会にも存在する。大竹は、戦後ドイツの「戦う民主主義」の中に、法律だけでは規定できない、形式的には合法的であっても、自由民主義体制への脅威となりうる合法性を認めない、超合法性のための秩序の議論に、合法性を超えて機能する「正常性」が、戦後社会にもあることを論じている。それだけではない。ドイツに限らず、イギリスでも、1970年代以降、S・ホール「危機を取り締まる」やモラルパニック論で論じられてきたことは、単なる違法性を超えて、社会的清浄性からの逸脱とみなされる行為や集団に対する、「イギリスらしい生活」の側からの道徳的非難の問題であった。Policing crisis、2002年版のp150。  

 

D・ガーランドは、このような司法の領域のなかへ、矯正や治療とそれを支える社会科学的な知が流入してくる過程を、刑罰福祉主義と名付けている(culture of control p38-39)。レッセフェール自由主義的国家から、福祉国家への歴史的移行が、刑罰の領域で現れた結果だと考えるのだ。

 

感想

最後のところで、刑罰福祉主義の凋落の話が出てくる。ここがきになるところだが、本論の射程からは微妙に抜け落ちている。純粋司法的な領域に、社会科学的知と実践が参入してくる過程があるという事実には旧派、新派、フーコー、ガーランドすべてが同意している。しかし、この過程を、法律主義を超えて特定の「正常性」を目指す行政管理的技術の侵入として否定的に捉えるのか(法治国家的原則が侵犯されていると考えるのか)、それとも福祉国家の発展が肯定的側面を持つのと同じく、社会防衛的な刑事政策は歓迎されるべき面を持っているのだろうか。前者は、啓蒙主義を経て等しく理性的であるとされる自由な主体の個人という前提が失われることを危惧しているが、後者はそのような前提はフィクションであり、現実的な社会政策による状況の改良・教育は良い結果をもたらすと考えるだろう。換言すれば「社会防衛」は良いことなのか悪いことなのか。

このような論争が目立つようになるのは、論争の軸が刑法学の旧派・新派論争が、次なるステージへ移った時である。本論はこの段階について議論の最終部分で触れるにとどまり、必ずしも強調はしていないが、今日的状況を考える上で重要である。たしかに本論でも、1970年代以降、社会防衛論に基づく強制主義に危機が訪れていることに、触れてられている。犯罪者の矯正・治療による社会復帰は、実際には有効に機能していないという批判が、先進諸国において沸き起こってきたことについてだ。刑罰福祉主義が拠って立つ基盤自体が疑われるようになった(culture f control pp53-73)という話。

しかし、リスク管理型ポリシングや保険統計主義、環境犯罪学、厳罰化への転回といったことまでは、出てこない。このあたりまで考慮に入れると、ガーランドの立場はかなり微妙になる。つまり、ガーランドはドゥルーズのcontrol society的な状況を批判するために、ある程度肯定的に刑罰福祉主義というのを言っていたのではなかったか。

 

 

いや、よくわからなくなったので、もう一度ちゃんとCulture of Controlを読もう。。。