Wenzelburger, G. 2015. Parties, Institutions and Politicas of Law and Order

Wenzelburger, G. 2015. Parties, Institutions and Politicas of Law and Order: How Political Institutions and Partisan Ideologies Shape Law and Order Spending in Twenty Western Industrialised Countries. British Journal of Political Science 45(3) pp.663-687.


○主張の要約
与党の党派的イデオロギーが「法と秩序」(law and order)政策に影響を与える。具体的には、公共秩序や安全に対して、どれだけの予算を計上するかは、政府与党のイデオロギーに影響を受けるということ。ただし、政府与党の意向は、予算上の制約、制度的制約によって制限される。以上のことを、理論的かつ実証的に示す。

○導入
「法と秩序」をめぐる政治は、近年のヨーロッパでは、重要な政治論争のテーマになっている(国民戦線支持票を奪うために、法と秩序の番人であることをアピールしたサルコジタブロイド紙から批判された司法相を解任したキャメロン)。しかし、政治学の研究は「法と秩序」について十分に扱っていない。むしろ、この主題については犯罪学者の間で議論が盛んであった。有名なD・ガーランドの厳罰化(punitive turn)説は、工業化が進んだ西洋諸国で、ネオリベラルな資本主義が、経済だけではなく、ソーシャルコントロールの領域においても、根本的な変化をもたらした、と論じる。ガーランドに続いて、他の多くの犯罪学者が、ネオリベラリズム、グローバリゼーション、福祉国家の削減などの社会経済的変化が、より厳しい「法と秩序」政策をもたらしたと論じてきた。
しかし、政治科学の観点からすれば、この犯罪学の潮流には不満がある。1、「法と秩序」をめぐる政策は、構造的条件がそのまま反映されるわけではなく、政府・議員による立法によって実現されるにもかかわらず、政策形成過程に関する着眼が不十分であること。2、犯罪学研究は、「法と秩序」をめぐる国家間の違い、多様性を無視しがちであること。3、犯罪学の潮流では、個別の歴史叙述を質的に用いた研究か、拘禁率と犯罪不安を分析する量的研究が多いが、これらの変数は、政策形成よりも、因果的に遠いところにあること。
本論は、OECD諸国20ヵ国の1995〜2008年のデータを用いて、犯罪学による構造的説明よりも、政党のイデオロギーの違いや予算・制度的制約が「法と秩序」の政治を説明するのに適していることを示す。Fig.1は、国ごと、時期別の(その間に政権が変わる)「法と秩序」に関する公共支出学の変化をGDP比で示したもの。。

○最新の犯罪学研究と理論的根拠(p.666−)
先行研究(犯罪学)の要約。近年の比較犯罪学研究は、2つの潮流に分けられる。1、今日の西欧社会は、グローバリゼーション、ネオリベラル化、福祉国家の削減によって、治安面ではより厳しい政策、厳罰化(punitiveness)が進んでいる、とする立場(Garland 2001, Wacquant 2001, 2006)。主に、刑務所人口の増大を根拠に言われる。2、西欧諸国といっても、一概ではなく、それぞれの間に違いがあることを強調する立場。どのような要因が多様性を生み出しているかは、様々。(table.1参照)。ただし、どちらも因果関係の説明に、構造的なアプローチを採用している点で共通。格差、貧困、失業などが「法と秩序」政策に影響を与える、という見方。他方で、メディア、政党間競争、利益団体、新興右派政党の存在、福祉国家の寛大さ、さらにレイプハルトのデモクラシーの類型(コンセンサス型or多数決型)などの要因も無視できない。
したがって、現在の「法と秩序」または「厳罰化」をめぐる議論は、説明変数の過多と、全体的なフレームワークの喪失という問題に直面している。問題は説明変数だけではない。従属変数についても、統一されていない。犯罪学者たちは様々な要因を挙げて、「厳罰化」の現れだとしている(判決の厳罰化、三振法、拘禁率の上昇など)。統一されていない。
したがって、因果関係を整理しなければいけない。1、多様な説明変数は、それぞれどのように関係しているのか。2、全体的な厳罰化傾向と、国ごとに違いがあることの両方を射程に入れた、全体的説明の理論的フレームワークを作る。ここでは、多数の説明変数と被説明変数の関係を整理するために、因果順序(causal order)の考えを用いる。因果順序とは、個々の要因が、他の要因とどのような位置関係にあるのかを整理したもの(Fig.2)。そして、最終的な従属変数としては、「法と秩序」に関する公的支出(例えば警察の人件費増額)に統一する。
「法と秩序」政策を決する政府や裁判所は、政治制度の影響を受ける存在。例えば、アメリカの多くの州のように、判事が直接選挙で選ばれる場合、判決には世論の影響が強く反映される。また、イギリスのように小選挙区で、二大政党が政策を近づける場合、犯罪に厳しい態度が亢進する。また、強力な憲法裁判所がある場合は、政府が厳しい「法と秩序」政策を実行しようとするのを妨げる。しかし重要な点は、これらはいずれも法案の決定や判決、予算を直接決めてしまうものではないということ。

○Fig.2の読み方(p670)
左側に位置するほど、構造的で大きな傾向の要因(big trends)(貧困化した失業人口、グローバリゼーション、脱産業化、ネオリベラリズム)を示している。これらは、根底的な要因だが、政策に直接影響を与えるには距離が遠すぎる。big trendsは、まず、犯罪率の上昇や犯罪不安の上昇、犯罪に対する市民の厳しい態度などに影響を及ぼす。次に、こうした世論の変化は、政府の政策に影響を及ぼす。
これまでの犯罪学の研究はFig.2の左側の要因にばかり注目してきて、右側で直接的な影響を与えている要因(政府と予算)についての研究は不十分だった。政治制度を視野に入れる比較犯罪学研究の場合でも、選挙制度福祉国家の類型には注目するが、政府与党の構成については扱っていない。

○条件と仮説(p671−)
与党のイデオロギーが影響していると言えるための3条件。1、異なる国家間または異なる時期で、政府が「法と秩序」についての姿勢を変化させていること。2、与党が自らのイデオロギーを政策に反映させるインセンティブを持つこと。3、制度的・財政的条件が与党の政策実行を許すこと。
条件1:注意点は、経済問題に関する左右軸以外の軸(cf:キッチェルト)が存在すること。政党の位置は、Manifesto Research Groupのデータを使用(Klingemann et al. 2006)。変化は与党が変わることによっても起きるし、同じ政党が与党でも党内の姿勢が変わることによっても生じる(カナダ自由党政権1995—2005)。政権交代が起きても、「法と秩序」政策について大きな変化がない国もあれば、大きく変化する国もある。
条件2:与党は必ずしも自らのイデオロギーを率直に政策に反映させるとは限らない。よく言われるように、政治家は自らの政党の支持者が期待する政策と、再選可能性を高める政策(政党の支持者ではなく、広く一般有権者に支持されている政策)との間のトレードオフ関係から選択をしなければならない。政党レベルのマクロな視点では、こうしたトレードオフは、政党は固有のイデオロギーよりも、得票の最大化を目指して、政策を有権者の世論に近づけようとする。つまり、「法と秩序」についての政府の態度を決めるのは、政党のイデオロギーよりも、有権者の世論。ただし、多くの中道政党は有権者の大半と「法と秩序」に関する考えを共有しているので、中道政党は自らの公約を実行することに問題を感じない(ただし極端な政党は別)。
仮設1:政府(与党)が「法と秩序」について厳しい立場をとている場合、その国の「法と秩序」政策は厳しいものになる。
条件3:憲法裁判所(の判決)が政府の厳しい「法と秩序」政策を制限するような制度的緩和がある。憲法裁判所のような制限が最も弱いように見えるイギリスの場合でも、貴族院内務省の政策に対して反対することで、憲法裁判所的な役割を果たしている。また、財政上の制限が政府の自由な政策を制限する(緊縮財政が必要な状況下では、政府のイデオロギー的違いは影響力を持ちにくい)。
仮説2:政権ごとのイデオロギー的違いがもたらす影響は、憲法裁判所に代表される制度的制限と、予算上の制限によって、条件づけられる。

○データ、方法、変数、評価方法(p675−)
・独立変数:政党のイデオロギー位置。Manifesto Research Groupのデータ。
・従属変数:「法と秩序」に関する公的支出額。

○結果(p677−)
・他の変数(デモクラシーの類型や福祉国家の類型など)を加えて回帰分析すると、政権のイデオロギーと予算の関係は弱い。「法と秩序」について厳しい立場を取っている政権と、「法と秩序」に関する予算の多さは、たしかに相関していたが、弱い関係しか見られなかった。仮説1は、十全に支持されない。
選挙制度やコーポラティズムは影響を与えない。
・財政的制限は大きく影響する。財政赤字額の高さは、「法と秩序」についての支出を減らす。またはその逆。
・殺人の多さと犯罪不安は、「法と秩序」についての支出を増やす。
・脱工業化や経済の開放性、所得格差、失業率は、影響を与えない。犯罪学が想定したのとは逆に、失業者が多ければ、政府支出は「法と秩序」以外の社会保障や雇用創出へ向けられるため、「法と秩序」に関する支出はむしろ減る。
・影響が大きい順に並べると、殺人件数・犯罪不安→財政状況→制度的制限・裁判所→政党のイデオロギー。殺人件数や犯罪不安は、それを受けて政府が政策を変える重要な要因。
・ただし、最も影響の小さい政党のイデオロギーも、方向性としては仮説1を支持している。問題は程度が小さいこと。(Fig.3)
・仮説2(政党のイデオロギーの違いは、財政状況と制度的条件によって制限される)は、Fig.4において支持されている。例えば、強力な司法審査制度がある場合、「法と秩序」に対する支出は、政権のイデオロギーが強くても、抑制されている。予算についても同様。

○結論(p682−)
犯罪学研究の多くが依拠するような、構造的要因(グローバリゼーション、ネオリベラリズム、脱工業化など)は、「法と秩序」に関する政策を説明する一つの要因ではあるが、各国政府の政策を決定づけるものではない。「法と秩序」についての評価は、各国の政策形成過程を考慮して行われる必要がある。
政権のイデオロギーは「法と秩序」政策の方向性を決めるが、それは予算や制度の制約に大きく左右される。

 

Comment
・Newburn, T. 2007. ‘Tough on Crime’: Penal Policy in England and Wales. Crime and Justice 36: 425-470は、例外的に党イデオロギーを考慮した研究。
・犯罪学が、大きな流れしか論じず、各論や国別の詳細を研究していないかのような前提は、おそらく正しくない。犯罪学の研究は膨大にあるはずで、個別事例や比較を用いた研究はたくさんあるはずである。著者が読んでいないだけではないか。
・p669の註26で断りがあるように、本論は予算面についてのみ分析対象にしているが、政府が行えることには、予算をかけずに行える、規制の変更やシンボリックな行為があるはずであり、予算だけで判断することはできない。
・大きな理論を批判するには、調査範囲となっている時代が短い(1995—2008)。ガーランドたちが問うているのは、まさにこの論文が調査していない、長期間の変化ではないか。95年には西欧諸国の多くで、既にグローバリゼーション、ネオリベラリズム、脱工業化がある程度進んでおり、そこから2008年までを分析しても、big trendsはもう出来上がってしまっているのではないか。
財政赤字の多い国ほど、「法と秩序」政策において寛容であるというのは、南欧諸国を考えると、本論の想定する理由だけに求められるのだろうか。気楽さ、国民性・・・

U・ベック『世界リスク社会論』 ノート

U・ベック(島村賢一訳)(2010)『世界リスク社会論−テロ、戦争、自然破壊』ちくま学芸文庫

日本語版への序文(2002年8月 訳者解説169頁)
p10:主権をめぐるナショナルなゼロサムゲームは歴史的に誤ったものとなる。新しいコスモポリタン的な現実主義が登場する。グローバルなcrisisやriskの時代においては、超国家的な依存関係が重要になり、そのことを理解した政治によってのみ、国家の自立が得られるという逆説。
p12:ロシアや中国やイランがを、テロに対する同盟として一つにまとめる可能性。従来の国家間の敵対関係のイメージと、国家ではなく集団やネットワークや個人に関する超国家的なテロに対する敵対関係を、明確に区別することが重要。超国家化、脱場所化、脱画一化、ネットワーク。
p13:しかし、誰がどのような基準でテロリストを認定するのか。現状では強い国家が決めている。
p14:不安の文化のグローバル化、リスク社会においては不安が共同体の紐帯になる。不安で人々が結びつく。不安に包まれた人間は、自由や権利に対する侵害を受け入れやすくなる。安全のために自由という代価を支払おうとする。Patriot Act(米)。

言葉が失われるとき(2001年11月)
p22-23:戦争/平和、軍隊(対外安全保障)/警察(国内治安)といった従来の区別が通用しない。ドイツ国内の治安を守るためには、アフガニスタンの奥地で防衛する必要がある、というような。「防衛」という言葉自体が無意味になりつつある。今まで使ってきた言葉、概念では、役に立たなくなっている。
p25:1万年後の未来。
p26:数量化可能なリスクを扱う言語と、数量化することのできない不確実性の世界との隔たりが、科学技術の発展とともにますます拡大している。遺伝子工学ナノテクノロジー、コンピュータ科学は、制御不能、予見不能、コミュニケーション不能な結果をもたらす。
p27:リスク概念は近代の概念。決定ということを前提に、予見し、制御、回避するという姿勢が前提になる。したがって、純粋な天災とは違う。文明社会がもたらしたリスク。
p28:世界リスク社会は、危険のグローバル化でもあるが、新しい世界政治を切り開くチャンスでもあるグローバルなテロに対して、危険のグローバル性を認識すれば、これまで対立していた主権国家同士が運命共同体として協力するかもしれない。
p37:国境を超えた脱領土的なテロのネットワーク。
p38:自爆犯の単独性。犯行=自己抹消なので、国家は彼らを操作できない。国家は実行犯を「陰で操る人間」、支援国家を補足しようとするが、犯人が自分自身を裁いた時点で、因果関係は失われ、消えてなくなってしまう。戦争の個人化、国家同士の戦争ではなく、個人が国家に仕掛ける戦争へ。
p40:軍隊と市民社会の区別、容疑者と容疑のない人の区別の溶解。市民は自分が危険人物ではないことを証明することが必要になる。というのも、誰もが潜在的なテロリストでありうると疑われるからだ。何の容疑がなくても、治安のために管理されなければならない。

p41-42:ベックは、法の原則、テロについての国際的な協定と、裁判による判断が必要だと説く。「とりわけ国際司法裁判所の規約を、アメリカも含めすべての国家が批准しなければいけない…その目標は、人類に対する犯罪としてテロを世界中どこでも罰することができるようにするということです」
p53:ネットワーク化し、グローバル化したリスクについては、外交と内政は峻別できない。国家の安全のためには、国家を超えた協力が必要、自国の利益のために脱国家化が必要、という逆説。国家の自己決定権の縮減と、国家主権の増大とは、論理的に排除し合うものではなくなる。
p54:主権と自己決定権をくべるする必要。国民国家は主権と自己決定権の等置を前提にしてきた。経済的相互依存や国家間の軍事的協力は自己決定権=主権の喪失を意味していた。しかし、現在では、強調する能力、ネットワーク化された国家間関係、「共有化され、束にされた主権」の時代である。
p56、58:ただし、国家を超えた国家間協力が、監視国家・要塞国家へ向かってしまわないように、開かれた国家、立憲的寛容へ向かわないといけない。EUの将来に期待!あほか。

世界リスク社会、世界公共性、グローバルなサブ政治(1996年5月)
p71:リスク社会とは、究極的に考えると、世界リスク社会を意味する。空間的にも時間的にも境界が定まらない、文明によって作られた危険を本質とする。したがって、階級対立、国民国家、直線的で技術経済的な合理性や制御といった第一の近代=産業化の段階の基盤が揺らぐ。社会と自然という二元論は限界に至る。なぜなら、文明によって作られた不安定性(リスク、危険、副作用、グローバル化)が問題となる
からである。
p72:世界リスク社会は、文明衰退論的に政治の終焉をもたらすのではなく、社会を反省的なもの(reflexive)と位置付ける(社会が自分自身を主題と問題とする)。そして、グローバル性は強調的な国際機関の創設の機会を開く。また、グローバルなサブ政治が展開する。世界リスク社会という苦境は、世界市民社会が生じる機会でもある。
p76:自然というのはナチュラリストが考えるような意味で、もともとある(破壊された)ものではない。自然とは何らかの形で社会化されたものであり、文化がつくりあげた自然概念であることに注意。
p78-79:専門家や技術者は「どのように私たちは生きたらよいか、人間はさらに何を甘受する覚悟をしたらいいか、しなくてよいのか」といった問いには答えられない。こうした問いへの答えは、諸文化によるグローバルな対話の対象にされるべき。文化科学(生態系の危機の程度と緊急性は、文化内の認知と評価によって変動すると考える)的な議論の対象である。フランスとドイツでは原子力発電についての、文化的な認識が異なる。危険とは、我々の意識と独立にそれ自体として存在するようなものではない。危険は意識化によって初めて政治的なものとなり、その後で科学的な議論のための資料によって戦略的に規定されたり演出されたりする社会的構築物である。すでにDouglas, Mary and Wildavsky, Aaron. 1992.Risk and Culture は、この味方を提示していた。
p80-84:リスクについての現実主義と構築主義。現実主義は、リスクが科学的に実在すると考える。リスクは科学的に、そこにあるのである。構築主義は、解釈の優位性を強調する。リスクは社会的に構築されたものである。現実主義的な危険の自明性が「どのように作り上げられているか」「どのような行為者や制度がその決定に影響を及ぼしているか」が問われる。構築主義によれば、世界リスク社会は、科学的診断に基づくのではなく、言説の状況に基づいている(リオデジャネイロの国連環境開発会議以降、90年代になってからの言説)。
p88:「単純すぎる構築主義」自分こそが唯一の構築主義であるという、いわば現実主義的な誤解に陥る。危険はすべて構築されたものということになれば、危険の無害化に陥る。対する「反省的な現実主義」。
p89:ラトゥールのANT紹介。社会と自然の二元論は機能しない、代わりに「判別不可能性」、否定形。
p92:ハラウェイ、境界の消滅と混沌を受け止め、自分で意識的に新たに定める。ITとバイオテクノロジーが女性と男性、人間と機械の区別を書き換える可能性。
p96:マールテン・ハイエール「現実がより現実的になる」可能性、社会的現実の非構築的な構築の可能性。危険を「比較にならない」と排除する政治、画像や感覚に訴えて危険を提示・隠蔽すること。注14「政治というものは、共有化された現実規定に基づく言説・連合の創造の過程である。信用性と受容性と信頼が、世界形成の過程がどの程度成功するかを決定しているとわれわれは示唆した。これは、結局、反省的な制度的編成を企画しようとするならば、言説連合の社会認知的基礎を考慮に入れるべきであることを暗示している。」Hajer, Maarten. 1996. The Politics of Environmental Discourse: Ecological Modernization and the Policy Process. p.280,287.
p98-100:リスク予測、保険の原則、事故の概念。災害対策、将来への備えが通用する産業社会のリスクから、保障不可能、危険予防不可能なリスク社会へ。因果関係に基づき、責任をとるという既存の規則が機能しなくなっている。
p113-116:グローバルなサブ政治の到来。自らが原因となって生み出される制御不可能性、不確実性。副作用。産業社会では社会的だったもの(経済、科学、私的領域と家族)が、サブ政治的なものに変わる。なぜならすべてが、新たに正当化され、審理されなければならなくなるから。産業的近代化が成功したからこそ生じる問題である。反省的近代化、自己適用、自己変容の過程。サブ政治は。国民国家の政治システ
ム、公式の代議制度を超えた政治を要求する。サブ政治は直接的な、下からの、イシューごとの政治を意味する。代議制度を通り越し、政治的決定にその都度個人が参加。例:北海油田ブレント・スパール廃棄に対するガソリン購買ボイコット運動。グリーンピースではなく、テレビを通じ刺激された市民運動
p120:「最終的に考えるならば、一種の「敵のない政治」、反対者や抵抗のない政治が中心となる」!ええええ・・・
p121:グローバルな危機の挑戦により、ナショナルなものを超えた再モラル化が起き、身分意識や階級意識、進歩信仰や没落信仰、共産主義という敵対象の代わりに、世界(環境)の救済という人類のプロジェクトが登場する。グローバルな危険は、グローバルな共同体をつくる。
p123:多国籍企業と各国政府は世界公共性の圧力にさらされる。
p127:テレビへの期待。

 

 


所見
・この本がいかに酷いか。p28-30例えば、グローバルなテロに対して諸国が協力して、世界政治の新しい可能性が開けるといったベックの見立ては、2010年代の現実では、明らかに破綻してしまった。

ゼロサムゲーム的なものの見方に対する徹底した否定という姿勢、例えばp120:「最終的に考えるならば、一種の「敵のない政治」、反対者や抵抗のない政治が中心となる」、p41-42:「目標は、人類に対する犯罪としてテロを世界中どこでも罰することができるようにするということです」。カール・シュミットの懸念、人類、普遍的人権、普遍主義、自由主義、といった美辞麗句に含まれる危うさが全く無視されている。「中立化と脱政治化の時代」(1929)。

浅野楢英『論証のレトリック』ノート

ちくま学芸文庫になっていたので、手に取って読んだ。
全く専門外なので、内容をメモするだけにしておく。

浅野楢英(1996:文庫2018)『論証のレトリック−古代ギリシアの言論の技術』ちくま学芸文庫

はじめに−「言論の技術」とはなにか
p11:古代ギリシアでは言論も思想(思考内容)や思考のはたらきも、「ロゴス」と呼ばれる。ロゴスは多義的な語。言葉、言表、定義、弁論、演説、理法、討論、散文、叙述、物語、理論、推理、計算、理性、論理、理由、比例、割合など。思想がなければ言論はないが、言論を介さないで思考することはできないから。
p14:レトリック(レートリケー)とは、単なる表現の技術、修辞法(言葉のあや)に限定されない。言論の技術である。修辞法はレートリケーの一部でしかない。
p16・17:レトリックは、知識のない者が知識のある者よりも、ものを知らない(専門知識を持たない)人たちの前で説得力を持ってしまうという危険性を含む。プラトンゴルギアス』。
p23:アリストテレス『トピカ』。大衆を相手にする説得には、専門知識では無理で、エンドクサ(通念)に基づいて言論を展開しなければならない。さらに知恵を伴う言論が必要な場合には、教養(パイデイアー、ラテン語のhumanitas)に依拠する必要がある。

 

1章 レトリック(レートリケー)事始め
p33:技術としてのレートリケーの始まり、民主政だったシケリアのシュラクサイの、コラクスとテイシアスが法廷弁論に関する規則をまとめたハンドブックを作成。
p34:プラトンパイドロス』:テイシアスは「真実らしくみえること(エイコス)が、真実そのものよりも尊重されるべきだと見抜いた人である。なぜ尊重されるべきかというと、エイコスは、多数の人にそうだと思われることだから。『ゴルギアス』:レートリケーとは、「説得をつくり出すもの」である。
p35:レートリケーの発展に寄与した人物。テイシアス、トラシュマコス、テオドロス
p38:弁論の配列。1序論(プロオイミオン)、2陳述(デイエーゲーシス)、3証拠(テクメーリオン)→真実らしいこと(エイコス)→保証(ピストーシス)→論駁(エレンコス)、4概括(エパノドス)。法廷弁論のモデル。
p39:紀元前5世紀後半から前4世紀、ソフィストが台頭。プロタゴラスゴルギアス、プロディコス、ヒッピアス、エウエノス。共通点として、道徳的相対主義、確実な知識の可能性に対する懐疑、人間中心主義などがあるが、ソフィストとは元来、学派ではなく、授業料をとって若者たちに教育を授ける職業教師のことを指す。
p40:ソフィストは言論によって人々を説得する能力=徳だと考え、法廷では陪審員を、政務審議ではぎいんたちを、民会では出席者たちを説得する能力を重んじた。
p43:ソフィストの教育方法は、弁論や問答の手本を受講生に暗記させるやり方。アリストテレスは、この方法を批判する。技術の成果を与えるだけでは、その技術を与えることにはならない(『ソフィスト的論駁』34章)。
p44-51:ゴルギアスが紹介する「パラメデスの弁明」。トロイア戦争の英雄パラメデスは、トロイア遠征に行きたがらないオデュッセウスに、内通者だという嫌疑をかけられる。裏切り者でないことを証明するために、パラメデスは、・内通が実行不可能であること、・自分には動機がないこと、・オデュッセウスの告発に矛盾があること(論理的整合生)の3点で反論した。相手の主張から矛盾を引き出すことで、その主張が偽であることを論証する方法を、背理法または否定式と呼ぶ。背理法を最初に用いたのはゼノンだとされる。ゼノンは、「アキレスと亀」や「飛んでいる矢は静止している」という例によって、「動くものが存在する」ことを論駁(ゼノンのパラドクス)。これはパルメニデス存在論形而上学)に反論するために考え出された。ゼノンの方法は、プラトンの対話篇でソクラテスがよく利用する論駁法である。
p52-53:ゼノンの方法が詭弁的に悪用されたものを、争論術(エリスティケー)という。相手の主張の両立不可能な部分をあぶり出し、言い負かすことだけが目的。そのために、多義的な語や意味の不明確な表現をわざと操る。例えば「学ぶ人は無知であり、かつ知者である」とか「嘘をつくことは不可能なことである」とかの詭弁。
p54-55:プラトンのレートリケー批判。『ゴルギアス』『パイドロス』。レートリケーは説得することを目的とするが、それでは事柄についての知識(エピステーメー)をもたらすことはできない。ただ信念(ピステイス)をもたらすだけである。ピステイスは真である場合もあれば、偽である場合もあるような思いなし(ドクサ)にほかならない。プラトンは、一般に技術は取り扱う対象の善を目指すものだと考える。政治術は、人々の心を対象とし、心ができるだけ善いものになり、優れた市民になるようにする技術。対してレートリケーは人々の心にもっぱら快をもたらすことしか考えていない、迎合である。
p58:真実と真実らしいものとは異なる。プラトンによれば真実(真理)を知るためには、哲学(知を愛する営み)の方法であるディアレクティケーが必要。
p59-61:イソクラテスソフィストとも、プラトンとも別の立場。言論の技術を誰にでも機械的に授けることができるとするソフィストたちを非難。現実の場で役に立たないプラトンの哲学も非難。イソクラテスの哲学は、プラトンの哲学(問題とされる事柄についての体系的な知識の探求)とは異なる。厳格な知識を獲得することは人間本性にとって元々不可能なこと。したがって、知者(ソポス)とは「思いなし(健全な判断、ドクサ)によって大概のばあいに最善のものに達することのできる人々」。イソクラテスの思慮分別とは、実生活において何をなすべきかという政治的・倫理的な行為の規範に関する健全な判断(ドクサ)のこと。

 

2章 アリストテレスのレートリケー理論
p64:アリストテレス。説得的なものには、「それ自体だけでただちに説得的で信じられるもの」と「それ自体だけで説得的なものを根拠にして証明されていると思われることによって説得的なもの」の2つがある。
p67:アリストテレスのレートリケー理論の全体図。重要。
p68:『弁論術』3巻のうち、修辞法(レクシス)と配列法(タクシス)の研究は最後の第3巻が当てられるのみで、大部分は説得立証法(ピステイス)の研究。
p71—72:弁論には3種類ある(p72の表、重要)。1、審議弁論(議会弁論)。議会などで集会に集まる人々を相手にする。将来のことに関して、利益と損害に着目しながら、ことをおこなうように勧めたり、制止したりする。2、法廷弁論。裁判官や陪審員を相手にする。過去の行為に関して、正と不正とに着目しながら、相手を告訴したり、自分を弁明したりする。3、演示弁論。冠婚葬祭の儀式などに集まった観衆を相手にする。過去や将来のことにも言及するが、主として現在のことに関して、美と醜、徳と悪徳に着目しながら、人の行為を賞賛したり、非難したりする。

p75:聴衆が説得されるのはなぜか。・事柄のロゴス(論理的説明)によるもの、・語り手のエートス(品性・人柄)によるもの、聴衆のパトス(感情・情念によるもの)の3種類。ロゴスによる説得立証は、事柄の利害、正不正、美醜の論証による。
p78:論証とは、何事かを主張するための理由を説明する言論である。論証には、推論(シユロギスモス)と帰納(エパゴーゲー)がある。推論はいくつかの前提命題から結論命題が論理必然的に導き出されるもの。前提がいずれも真であれば、必ず結論も真である。帰納は、AであるいくつかのものがBであるという個別命題を理由にして、AであるすべてのものがBであるという普遍命題を主張しようとすること。レートリケーでは推論は「説得推論」、帰納は「例証」と言われる。『弁論術』1356b4

p80:アリストテレス論理学の用語、「属する」(ヒユパルケイン)とは、「述語となる」(カテーゴレイスタイ)とも言い換えられる。「属性となる」「属性として当てはまる」。

p83-86:「説得推論」の3つの論拠。「真実らしいこと」(エイコス)、「証拠」(テクメーリオン)(必然的な徴証)、「必然的でない徴証」(セーメイオン)。1、「真実らしいこと」は、大概の場合そうであること。蓋然命題。異論があり得る。しかし、蓋然命題を蓋然的ではない(必然的ではない)ことだけを理由に、これを反論しても意味がない。例外をひとつふたつ見つけて蓋然命題が誤りだということはできない。反論するためには、それが蓋然命題ですらないこと、つまり大概の場合そうではないことを示さなければならない。レートリケーが扱う事柄は主として法や政治や倫理に関すること、人間の行為に関することであり、アリストテレスによれば、「為される行為はすべて他の仕方でもありうる類のものであり」、「どれ一つとっても必然的なものはない」。反対に、必然命題とは「三角形の内角の和はに直角に等しい」とか「地球は太陽の周りを回る」とか。2、「徴証」とは、せっとく推論の前提を結論との関係で特徴付けたもの。3、「証拠」は、全ての場合に、必然的に成り立つもの。「熱が高い者は病気である」「窃盗犯人は罪を犯している」など。「徴証」のすべてが必然的ではないので、「徴証」のすべてが「証拠」ではない。「彼は呼吸が荒い」は「彼は熱が高い」の「しぃうこ」にはならないが、「徴証」ではある。
p87:トポス。通常は「場所」や「領域」のこと。レートリケーやディアレクティケーでは、トポスとは、思想・言論のそれぞれの論拠がみいだされるばしょ・領域をいう。つまり、言論の拠りどころのこと。説得立証の拠りどころ(トポス)としては、ロゴスによるもの(3章)、エートスによるもの(4章)、パトスによるもの(4章)があった。全ての種類の弁論に共通するトポス(5章)というものもある。

 

3章 ロゴスによる説得立証に役立つ固有トポス
p94以下: 審議弁論に固有のトポス 利害・善悪。その行為が利益をもたらすか、害悪をもたらすか。善悪判断は究極目的=最高善=幸福を基準とする。最高善とは、他のもののために追求される善いものではなく、「それ自体のゆえに選ばれ、けっして他のもののゆえに選ばれることのないもの」である『ニコマコス倫理学』1巻7章。アリストテレスの場合、それは観想活動(テオーリアー)である。ただし弁論の場合は、一般人にとっての最高善でよいので、成功、生活の持続、安定的生活などになる。以下、よいものの比べ方の詳細。

p109以下:法廷弁論に固有のトポス 正不正。正義には分配的正義、矯正的正義、交換的(応報的)正義がある。ニコマコス倫理学、5巻。配分的正義は、配分がそれぞれの人の価値や能力に応じてなされていること。矯正的正義は、人と人の間に生じた利害得失に関する不平等を矯正して平等にすること。交換的正義は、人と人の間で交換されるものは互いに等価であること。以下、不正の大きさの比べ方の詳細。
p121:演示弁論に固有のトポス 美醜、徳と悪徳。以下、様々な徳の説明。
p124:賞賛するための理由が、非難するための理由にも転用できる。同じ性質に基づいて逆の主張をいうことができる。例えば。無謀な人を勇気のある人だと賞賛したり、浪費家を気前の良い人だと賞賛したり、慎重な人を冷たい策謀家だと非難したり。同様の内容p152。

 

4章 エートスまたはパトスによる説得立証に役立つ固有トポス
p131-132:『ニコマコス倫理学』1巻13章。人の心にはロゴス(理性的な部分)以外に、無理性的な部分がある。無理性的部分には、ロゴスに与る(いう事を聞く)欲求的部分と、ロゴスに与ることのない生物的部分がある。欲求的部分に属する徳を、エートス的な徳という。エートスとは、ロゴスの指図のもとでロゴスに従うことができる心のこと。習慣。普段の訓練によって変えることができる。
p135:エートス的徳とは、中庸のこと。過剰な感情や、感情の不足はどちらも良くない。適度な感情がエートス的徳。
p136:エートスによる説得立証は、聴き手のエートスに合わせて語る弁論でなければならない。誰にでも同じように語れば、論理は通じるわけではない。聴き手のエートスを無視してものを言っても説得できない。
p138:パトスによる説得立証は、聴き手の感情を誘導する方法。そのためには感情の違いや原因を知る必要がある。例えば、怒りと憎しみは違う。
p142-143:エートスとパトスによる説得立証は、論証の形をとるべきものではない。「…ゆえにみなさんは私を信頼すべきだ」とか「…だから諸君は怒るべきだ」とかにはならない。聴き手の感情を引き起こす時は、説得推論を述べてはいけない。論証はこれこれの前提からこれこれの結論が導き出されるというだけである。パトスによる説得立証とは、たとえば「私は不足を蒙ったけれども、後悔はしていない。彼には利得が残ったが、私には正しさが残ったから」というもの。エートスによる説得立証は、たとえば「それでも私は金銭を与えた。それも、簡単に人を信じてはいけないということを知っていながら」というもの。論理ではなく、行為に訴える。

 

5章 さまざまな共通のトポス
「AにBが属する=AにBが述語となる」、「AはBである」から始まる論理学のおさらい。定義によるトポス、帰納によるトポス、部分によるトポスなど。

 

6章 レートリケーとディアレクティケー
p166:ディアレクティケー。通常、「対話」「問答」と訳される、ヘーゲルの影響で「弁証法」と訳すことも。
p167-169:しかし、古代・中世のディアレクティケーの用法はもっと多義的。ストア派(前3世紀〜)のディアレクティケーは、文法学、意味論、認識論、形式的命題論理学から成る。13世紀ペトルス・ヒスパヌス(法王ヨハネス21世)の『論考(Tractatus)』(『論理学綱要』、中世の論理学の教科書)冒頭では、ディアレクティケー=論理学として使われている。中世における独創的な論理的意味論の「代表(スツポシテイオ)」の理論を含む(意味不明)。近代になって、カントの「超越論的ディアレクティク」は、(1)魂は不死か否か、(2)世界(宇宙)は、(a)空間的時間的に有限か無限か、(b)物質的に無限分割不可能か(原子から成るか)無限分割可能か、(c)その原初の原因として自由な原因が存在するか否か(全ては因果の必然なのかどうか)、(d)その原因として絶対に必然的な存在者が実在するか否か、(3)神は存在するか否か、という形而上学的問題を扱う。それぞれの問題に対して、相反する形而上学的な主張の双方が論証される。ヘーゲルの「ディアレクティク」は。思想または存在が定立(正)と反定立(反)との対立から総合(合)に至る過程を繰り返す論理的発展のこと。神から始まる壮大な形而上学存在論
p169-172:プラトンのディアレクティケー。レートリケーは長い弁論で人を説得する方法。ディアレクティケーは、短い言葉による問答で「物事の何であるか」を探求する方法。ソクラテス的な方法。ものの本質、イデアの探求。『パイドン』では「仮定」の方法。最も確かだと思われるロゴスを過程として立て、矛盾が生じないかどうかを調べていく。『パイドロス』以後、『政治家』などでは「分割と総合」の方法。問われている物事が、どのような上位の部類に含まれるのか、どのような会の類型に分割できるのかを探求していく。
p173:アリストテレスのディアレクティケー。プラトンのように、存在するもの全体の体系的な知識を探求する方法ではない。アリストテレスのディアレクティケーは、どんな事柄についても、「エンドクサ(通年)」を前提に問答を展開できるようにする方法。レートリケーとディアレクティケーに大きな違いはない。エンドクサだから、専門的知識ではないし、完全に正しい知識でもない。偽である場合もある。
P178:アリストテレスのレートリケーとディアレクティケーの共通点。どちらもエンドクサに訴える。異なる前提を見つけることで、互いに反対の主張を結論として導出することができる。どちらも、取り扱われる事柄そのものの知識ではなく、それらの事柄に関する言論の知識である。
p179-180:アリストテレスのレートリケーとディアレクティケーの違い。レートリケーは論述形式。ディアレクティケーは問答形式。レートリケーにはロゴスによる説得の他に、エートスやパトスによる説得もある。ディアレクティケーには論理的な証明だけ。レートリケーが扱うのは、「彼の行為は正しいか」「この政策は有益か」といった個別的問題。ディアレクティケーが扱うのは、「正義とはどういうことか」「有益とはどういうことか」といった普遍的問題。

 

7章 レートリケーと論理学
p184-185:形式論理学は、ディアレクティケーにおける共通のトポスとなる(扱う分野が違っても共通して通用する拠りどころ)。論理学とは、推論形式の妥当性を研究する学問。推論形式が妥当であるというのは、ぜんていがいずれもしんであれば、必ず結論も真になる形式を備えていること。PならばQ. しかるに、P. ゆえにQ.。
p186-187:妥当な推論の例。「地球は惑星であるならば火星は惑星である。地球は惑星である。ゆえに火星は惑星である」。ただし、形式が妥当かどうかは、結論の真偽とは無関係。前提の一つが偽である時に、結論模擬であるような推論は、妥当な形式である。「地球は惑星であるならば太陽は惑星である(偽)。地球は惑星である(真)。ゆえに太陽は惑星である(偽)」は、妥当な推論形式である。また、前提が偽であっても結論が真になる妥当な推論形式もある。たとえば「パリはドイツにあるならばパリはヨーロッパにある(真)。パリはドイツにある(偽)。ゆえにパリはヨーロッパにある」。
p188:妥当でない推論の例。前提がいずれも真であるのに、結論が偽となるような推論。PならばQ. しかるに、Q. ゆえにP.という形式は妥当ではない。これは「後件肯定の誤謬」と呼ばれる。「パリはドイツにあるならばパリはヨーロッパにある(真)。パリはヨーロッパにある(真)。ゆえにパリはドイツにある(偽)」。また、結果的に全て真になっても形式としては妥当でないこともある「地球は惑星であるならば火星は惑星である(真)。火星は惑星である(真)。ゆえに地球は惑星である(真)」。
p190:アリストテレスの論理学では、全称肯定、全称否定、特称肯定、特称否定の4つしか扱えない。全称肯定「すべての人間は動物である」。全称否定「どの人間も動物ではない」。特称肯定「ある人間は動物である」。特称否定「ある人間は動物ではない」。アリストテレスの論理学では、たとえば「ソクラテスは人間である」というような個別命題は扱えない。また、「ある男はすべての女を愛する」というような関係命題も扱えない。
p192:ストア派の論理学は、第3代学頭クリュシッポス(前280頃〜前207頃)による。
p194:中世論理学の代表者はウィリアム・オッカム(1285〜1349)。
p195-196:近世ヨーロッパでは、論理学が衰退。デカルトは論理学を軽視。論理学よりも数学重視(デカルトライプニッツニュートン)。論理学内部では、「ポール・ロワイヤル論理学」(1662)が出現。著者のアルノーとニコーが属していたパリの修道院「ポール・ロワイヤル」から。観念(概念)、精神的なものを重視。論理学を言論の方法ではなく、思考の方法としてとらえる。アリストテレスの論理学では、命題や推論は言語的な対象。しかし、「ポール・ロワイヤル論理学」では「観念」(idée)「判断」(judgement)「推理」(raisonnement)といった思考法則のことに言い換えられる。ただし、これは論理学を認識論と混同する傾向をもたらしてしまった。
p197:より豊かな現代論理学は、ドイツの数学者G・フレーゲ(1848〜1925)の『概念文字(Begriffsschruft)』(1879)以降。それをホワイトヘッドラッセルの『プリンキピア・マテマティカ』が継承発展。
p203:自然の必然性と論理の必然性は異なる。自然の必然性は自然法則に従うこと。この世界においては事実上、他の仕方ではあり得ないということ。重力のない地球とか、透明な太陽とかがあれば、結果は変わる。他方、論理の必然性は「PならばP」というような命題であり、これはPの内容が真であろうと偽であろうと成り立つ。

 

むすび
p206:共和制ローマでは議会弁論や法廷弁論が盛ん。帝政期になると弁論は学校教育の訓練題材と化してしまう。中世には、レトリックは三自由学科の1つになる。ただしその内容は修辞法(表現・文彩)のみに限られ、文法学や弁償術は、レトリックの外に置かれてしまう。ともあれレトリックは、19世紀までは学校教育で支配的位置を占める。そのか、ヴィーコ(1668〜1744)の『学問の方法』などがある。19世紀末には教育機関で教えられなくなる。
p208:レトリックを修辞学に狭めようとする動き。
p209:1960年代以降の欧米におけるレトリック復興。文学理論、哲学。バルト『旧修辞学』(1970)、ペレルマン『説得の論理学—新しいレトリック』(1977)、ポール・リクール『生きた隠喩』(1975)。日本でも、三輪正『議論と価値』(1972)、佐藤信夫『レトリック感覚』(1978)『レトリック認識』(1981)、澤田昭夫『論文のレトリック』。ただし、依然として修辞学に限定されたレトリック。
p210:1958年、ペレルマンとオルブレクツ・テュテカの『議論法の研究—新しいレトリック』が発表される。修辞学と文彩に限定せず、論理的観点から弁論の技術を研究している。ペレルマン『法律家の論理』(1976)など。

書籍購入 2018.5 ①

和書の新品はなるべく書店で購入するようにしている。

本日買ったものをメモしておく。

 

浅野楢英(文庫版2018)『論証のレトリックー古代ギリシアの言論の技術』ちくま学芸文庫

 

東浩紀(2011)『郵便的不安たちβ』河出書房新社

 

君塚直隆(2018)『立憲君主制の現在ー日本人は「象徴天皇」を維持できるか』新潮選書

 

デイヴィッド・レオポルド、マーク・スティアーズ編著、山岡龍一、松元雅和訳(2011)『政治理論入門ー方法とアプローチ』慶應義塾大学出版

 

キャス・サンスティーン著、田総恵子訳(2017)『シンプルな政府ー“規制”をいかにデザインするか』NTT出版

 

 

図書館購入申請 2018. 5

大学図書館には、院生一人当たり年額15万円の図書購入申請枠が与えられている。

 

2016、17年度はSFRという学内院生研究助成(年額20万)を受けていたので、この図書館の制度は活用していなかった。結局、研究費で買えば自分の本棚に置けるが、図書館に配架してもらったものは自分のものにはならない、という点で優先順位が低かったのだ。

 

しかし、2018年度はSFRの申請書作成をサボってしまったため、書籍購入費用に困るだろう。というわけで、苦し紛れに、図書館の制度をフル活用しようということになった。

 

5月の時点で。全額使ってしまうのは心許ないので、とりあえず今回はamazonほしい物リストに埋もれていた研究関係の本を数冊申請しておいた。なお、初めて利用する制度なので、申請希望が通るかどうかもよくわかっていない(たぶん通る?)。以下リスト。

 

Roger Eatwell and Matthew Goodwin, eds. 2010. New Extremism in 21st Century Britain. Routledge. 5,652円

 

Michael Tony. 2004. Punishment and Politics. Routledge. 5,006円

 

Andrew Ashworth and Lucia Zedner. 2015. Preventive Justice. Oxford University Press. 4,516円

 

Melanie Tebbutt. 2016. Making Youth: A History of Youth in Modern Britain (Social History in Perspective) . Palgrave. 11,427円

 

合計 26,601円

研究メモとして始める

研究生活のメモに使う。

 

・読んだ本、買った本、買いたい本、図書館に申請した本、論文などについて。

・日誌は自分だけが見るように紙のノートに書いているので、ここではそういうことはしない。

・ケーキの画像、コーヒー・紅茶の画像の記録は、instagram  @Y.perikan で公開しているのでそちらを参照されたい。

 

キーワード

政治学  社会学  犯罪学  犯罪社会学  イギリス  暴動  治安